あるのだが、きょうの話はまるで、どうもいけない。一つとして教えられるところが無かった。紅梅白梅が艶を競ったの、夢に夢みる思いをしたのといい加減な大嘘ばかり並べて、それからいよいよ山椒魚だ、巒気《らんき》たゆとう尊いお姿が、うごめいていて、そうして夜網にひっかかったの、ぱくりと素早くたべるとか何とか言って、しまいには声をふるわせて、一丈の山椒魚を見たい、せめて六尺でもいい、それはどのように見事だろう、なんて言い出す始末なので、私は、がっかりした。先生も山椒魚の毒気にあてられて、とうとう駄目になってしまったのではなかろうかと私は疑い、これからはもうこんなつまらぬ座談筆記は、断然おことわりしようと、心中かたく決意したのである。その日は私もあまりの事に呆《あき》れて、先生のお顔が薄気味わるくさえ感じられ、筆記がすむとすぐにおいとましたのであるが、それから四、五日経って私は甲州へ旅行した。甲府市外の湯村温泉、なんの変哲もない田圃《たんぼ》の中の温泉であるが、東京に近いわりには鄙《ひな》びて静かだし、宿も安直なので、私は仕事がたまると、ちょいちょいそこへ行って、そこの天保館という古い旅館の一室に自
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