けて出て行った。
私は部屋で先生と黙って酒をくみかわしていた。あまりの緊張にお互い不機嫌になり、そっぽを向きたいような気持で、黙ってただお酒ばかり飲んでいたのである。襖があいて実直そうな小柄の四十男が、腰をかがめてはいって来た。木戸で声をからして叫んでいた男である。
「君、どうぞ、君、どうぞ。」先生は立って行って、その男の肩に手を掛け、むりやり火燵にはいらせ、「まあ一つ飲み給え。遠慮は要《い》りません。さあ。」
「はあ。」男は苦笑して、「こんな恰好《かっこう》で、ごめん下さい。」見ると、木戸にいる時と同様、紺《こん》の股引《ももひき》にジャケツという風采《ふうさい》であった。
「なには? あの、店のほうは?」私は気がかりになったので尋ねた。
「ちょっといま、休ませて来ました。」ドンジャンの鐘太鼓《かねたいこ》も聞えず、物売りの声と参詣人の下駄の足音だけが風の音にまじって幽《かす》かに聞える。
「君は大将でしょうね。見せ物の大将に違いないでしょうね。」先生は、何事も意に介さぬという鷹揚《おうよう》な態度で、その大将にお酌をなされた。
「は、いや、」大将は、左手で盃を口に運びながら、右手の小指で頭を掻いた。「委《まか》せられております。」
「うむ。」先生は深くうなずいた。
それから先生と大将との間に頗《すこぶ》る珍妙な商談がはじまった。私は、ただ、はらはらして聞いていた。
「ゆずってくれるでしょうね。」
「は?」
「あれは山椒魚でしょう?」
「おそれいります。」
「実は、私は、あの山椒魚を長い間さがしていました。伯耆国淀江村。うむ。」
「失礼ですが、旦那《だんな》がたは、学校関係の?」
「いや、どこにも関係は無い。そちらの書生さんは文士だ。未だ無名の文士だ。私は、失敗者だ。小説も書いた、画もかいた、政治もやった、女に惚《ほ》れた事もある。けれどもみんな失敗、まあ隠者、そう思っていただきたい。大隠《たいいん》は朝市《ちょうし》に隠る、と。」先生は少し酔って来たようである。
「へへ、」大将はあいまいに笑った。「まあ、ご隠居で。」
「手きびしい。一つ飲み給え。」
「もうたくさん。」大将は会釈をして立ち上りかけた。「それでは、これで失礼します。」
「待った、待った。」先生は極度にあわてて大将を引きとめ、「どうしたという事だ。話は、これからです。」
「その話が、たいていわかったもんで、失礼しようと思ったのです。旦那、間《ま》が抜けて見えますぜ。」
「手きびしい。まあ坐り給え。」
「私には、ひまがないのです。旦那、山椒魚を酒のさかなにしようたって、それあ無理です。」
「気持の悪い事をおっしゃる。それは誤解です。山椒魚を焼いてたべる人があるという事は書物にも出ていたが、私は食べない。食べて下さいと言われても、私は箸《はし》をつけないでしょう。山椒魚の肉を酒のさかなにするなんて、私はそんな豪傑でない。私は、山椒魚を尊敬している。出来る事なら、わが庭の池に迎え入れてそうして朝夕これと相親しみたいと思っているのですがね。」懸命の様子である。
「だから、それが気にくわないというのです。医学の為とか、あるいは学校の教育資料とか何とか、そんな事なら話はわかるが、道楽隠居が緋鯉《ひごい》にも飽きた、ドイツ鯉もつまらぬ、山椒魚はどうだろう、朝夕相親しみたい、まあ一つ飲め、そんなふざけたお話に、まともにつき合っておられますか。酔狂もいい加減になさい。こっちは大事な商売をほったらかして来ているんだ。唐変木《とうへんぼく》め。ばかばかしいのを通り越して腹が立ちます。」
「これは弱った。有閑階級に対する鬱憤《うっぷん》積怨《せきえん》というやつだ。なんとか事態をまるくおさめる工夫は無いものか。これは、どうも意外の風雲。」
「ごまかしなさんな。見えすいていますよ。落ちついた振りをしていても、火燵の中の膝頭が、さっきからがくがく震えているじゃありませんか。」
「けしからぬ。これはひどく下品になって来た。よろしい。それではこちらも、ざっくばらんにぶっつけましょう。一尺二十円、どうです。」
「一尺二十円、なんの事です。」
「まことに伯耆国淀江村の百姓の池から出た山椒魚ならば、身のたけ一丈ある筈だ。それは書物にも出ている事です。一尺二十円、一丈ならば二百円。」
「はばかりながら三尺五寸だ。一丈の山椒魚がこの世に在ると思い込んでいるところが、いじらしいじゃないか。」
「三尺五寸! 小さい。小さすぎる。伯耆国淀江村の、――」
「およしなさい。見世物の山椒魚は、どれでもこれでもみんな伯耆国は淀江村から出たという事になっているんだ。昔から、そういう事になっているんだ。小さすぎる? 悪かったね。あれでも、私ら親子三人を感心に養ってくれているんだ。一万円でも手放しやしない。一尺二十円と
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