したっていた日本一の、いや世界一の魔物、いや魔物ではない、もったいない話だ、霊物が、思わざりき、湯村の見世物になっているとは、それこそ夢に夢みるような話だ。誰もこの霊物の真価を知るまい。これは、なんとしても黄村先生に教えてあげなければならぬ、とあの談話筆記をしている時には、あんなに先生のお話の内容を冷笑し、主題の山椒魚なる動物にもてんで無関心、声をふるわせて語る先生のお顔を薄気味わるがったりなど失礼な感情をさえ抱いていた癖に、いま眼前に、事実、その伯耆国淀江村の身のたけ一丈が現出するに及んで、俄然《がぜん》てんてこ舞いをはじめてしまった。やはり先生のお言葉のとおり、人間は形の大きな珍動物に対しては、理窟もクソもありやしない、とても冷静な気持なんかで居られるものでない。
私は十銭の木戸銭を払って猛然と小屋の中に突入し勢いあまって小屋の奥の荒むしろの壁を突き破り裏の田圃へ出てしまった。また引きかえし、荒むしろを掻《か》きわけて小屋へはいり、見た、小屋の中央に一|坪《つぼ》ほどの水たまりがあって、その水たまりは赤く濁って、時々水がだぶりと動く。一坪くらいの小さい水たまりに一丈の霊物がいるというのは、ちょっと不審であったが、併《しか》し霊物も身をねじ曲げて、旅の空の不自由を忍んでいるのかも知れない。正確に一丈は無くとも、伯耆国淀江村のあの有名な山椒魚だとすると、どうしたって七尺、あるいは八尺くらいはあるであろう。とにかくあの淀江村の山椒魚は、世界の学界に於いても有名なものなのである。知る人ぞ知る、である。文献にちゃんと記載されてあるのだ。
だぶりと水が動く。暗褐色のぬらりとしたものが、わずかに見えた。たしかだ。淀江村だ。いま見えたのは幅三尺の頭の一部にちがいない。私は窒息せんばかりに興奮した。見世物小屋から飛び出して、寒風に吹きまくられ、よろめきながら湯村の村はずれの郵便局にたどりつく。肩で烈しく息をしながら、電文をしたためた。
サンショウミツケタ」テンポウカン」ヨドエムラノヤツ」ユムラニテ
何が何やらわからない電文になった。その頼信紙は引き裂いて、もう一枚、頼信紙をもらい受けて、こんどは少し考えて、まず私の居所姓名をはっきり告げて、それからダイサンショウミツケタとだけ記して発信する事にした。スグコイと言わなくても、先生は足を宙にして飛んでくる筈《はず》だと考えた。果してその夜、先生はどたばたと宿の階段をあがって来て私の部屋の襖《ふすま》をがらりとあけて、
「山椒魚はどれ、どこに。」と云って、部屋の中を見廻した。宿の部屋をのそのそ這いまわっていたのを私が見つけて、電報で知らせたとでも思っていたらしい。やっぱり先生は、私などとは、けた違いの非常識人である。
「見世物になっているのです。」私は事情をかいつまんで報告した。
「淀江村! それならたしかだ。いくらだ。」
「一丈です。」
「何を言っている。ねだんだよ。」
「十銭です。」
「安いね。嘘《うそ》だろう。」
「いいえ、軍人と子供は半額ですけど。」
「軍人と子供? それは入場料ではないか。私はその山椒魚を買うつもりなんだよ。お金も準備して来た。」先生は大きい紙いれを懐中から出して火燵の上に載せてにやりと笑った。私はその顔を見て、なんだかまた薄気味が悪くなって来た。
「先生、大丈夫ですか?」
「大丈夫だ。一尺二十円として、六尺あれば百二十円、七尺あれば百四十円、一丈あったら二百円、と私は汽車の中で考えて来た。君、すまないが、見世物の大将をここへ連れて来てくれないか。それから宿の者に、お酒を言いつけて、やあ、この部屋は汚いなあ、君はよくこんな部屋で生活が出来るね、まあ我慢しよう、ここでその大将とお酒を飲みながら、ゆっくり話合ってみようじゃないか、商談には饗応《きょうおう》がつきものだ。君、たのむ。」
私はしぶしぶ立って下の帳場へ行き、お酒を言いつけて、それから、
「あの、へんな事を言うようだけど、」どうも甚《はなは》だ言い出しにくかった。「前の見せ物のね、大将を、僕の部屋に連れて来てくれませんか。いや、実はね、あの見せ物の怪魚をね(見せ物の看板では、天然自然の大怪魚という事になっていた)あいつをね、ぜひとも買いたいという人があるんです。それは僕の先生なんだが、しっかりした人ですから信用してもらいたい、とにかくそう言って大将をね、連れて来て下さいませんか。お願いします。相当の高い値で買ってもいいような事も、その先生は言っておりますからね。とにかく、ちょっと、ひとつ、お願いします。」こんな妙な依頼は、さすがに私も生れてこのかた、はじめての事であった。言いながら、顔が真赤になって行くのを意識した。まさに冷汗ものであったのである。宿の番頭は、妙な顔をしてにこりともせず、下駄《げた》をつっか
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