使ってもいいか。」
「ええ、少しは残して下さいね。」
「わかってる。九時ごろ迄には帰る。」
私は妻から財布を受け取って、外へ出る。もう暮れている。霧《きり》が薄くかかっている。
三鷹駅ちかくの、すし屋にはいった。酒をくれ。なんという、だらしない言葉だ。酒をくれ。なんという、陳腐《ちんぷ》な、マンネリズムだ。私は、これまで、この言葉を、いったい何百回、何千回、繰りかえしたことであろう。無智な不潔な言葉である。いまの時勢に、くるしいなんて言って、酒をくらって、あっぱれ深刻ぶって、いい気になっている青年が、もし在ったとしたなら、私は、そいつを、ぶん殴る。躊躇《ちゅうちょ》せず、ぶん殴る。けれども、いまの私は、その青年と、どこが違うか。同じじゃないか。としをとっているだけに、尚《なお》さら不潔だ。いい気なもんだ。
私は、まじめな顔をして酒を呑む。私はこれまで、何千升、何万升、の酒を呑んだことか。いやだ、いやだ、と思いつつ呑んでいる。私は酒がきらいなのだ。いちどだって、うまい、と思って呑んだことが無い。にがいものだ。呑みたくないのだ。よしたいのだ。私は飲酒というものを、罪悪であると思ってい
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