使ってもいいか。」
「ええ、少しは残して下さいね。」
「わかってる。九時ごろ迄には帰る。」
私は妻から財布を受け取って、外へ出る。もう暮れている。霧《きり》が薄くかかっている。
三鷹駅ちかくの、すし屋にはいった。酒をくれ。なんという、だらしない言葉だ。酒をくれ。なんという、陳腐《ちんぷ》な、マンネリズムだ。私は、これまで、この言葉を、いったい何百回、何千回、繰りかえしたことであろう。無智な不潔な言葉である。いまの時勢に、くるしいなんて言って、酒をくらって、あっぱれ深刻ぶって、いい気になっている青年が、もし在ったとしたなら、私は、そいつを、ぶん殴る。躊躇《ちゅうちょ》せず、ぶん殴る。けれども、いまの私は、その青年と、どこが違うか。同じじゃないか。としをとっているだけに、尚《なお》さら不潔だ。いい気なもんだ。
私は、まじめな顔をして酒を呑む。私はこれまで、何千升、何万升、の酒を呑んだことか。いやだ、いやだ、と思いつつ呑んでいる。私は酒がきらいなのだ。いちどだって、うまい、と思って呑んだことが無い。にがいものだ。呑みたくないのだ。よしたいのだ。私は飲酒というものを、罪悪であると思っている。悪徳にきまっている。けれども、酒は私を助けた。私は、それを忘れていない。私は悪徳のかたまりであるから、つまり、毒を以《もっ》て毒を制すというかたちになるのかも知れない。酒は、私の発狂を制止してくれた。私の自殺を回避させてくれた。私は酒を呑んで、少し自分の思いを、ごまかしてからでなければ、友人とでも、ろくに話のできないほど、それほど卑屈な、弱者なのだ。
少し酔って来た。すし屋の女中さんは、ことし二十七歳である。いちど結婚して破れて、ここで働いているという。
「だんな、」と私を呼んで、テエブルに近寄って来た。まじめな顔をしている。「へんな事を言うようですけれど、」と言いかけて帳場のほうを、ひょいと振りむいて覗《のぞ》き、それから声を低めて、「あのう、だんなのお知合いの人で、私みたいのを、もらって下さるようなかた無いでしょうか。」
私は女中さんの顔を見直した。女中さんは、にこりともせず、やはり、まじめな顔をしている。もとからちゃんとしたまじめな女中さんだったし、まさか、私をからかっているのでもなかろう。
「さあ、」私も、まじめに考えないわけにいかなくなった。「無いこともないだろうけど、僕なんかにそんなことたのんだって、仕様がないですよ。」
「ええ、でも、心易いお客さん皆に、たのんで置こうと思って。」
「へんだね。」私は少し笑ってしまった。
女中さんも、片頬を微笑でゆがめて、
「だんだん、としとるばかりですし、ね。私は初めてじゃないのですから、少しおじいさんでも、かまわないのです。そんないいところなぞ望んでいませんから。」
「でも、僕は心当りないですよ。」
「ええ、そんなに急ぐのでないから、心掛けて置いて下さいまし。あのう、私、名刺があるんですけれど、」袂《たもと》から、そそくさと小さい名刺を出した。「裏に、ここの住所も書いて置きましたから、もし、適当のかたが見つかったら、ごめんどうでも、ハガキか何かで、ちょっと教えて下さいまし。ほんとうに、ごめいわくさまです。子供が幾人あっても、私のほうは、かまいませんから。ほんとうに。」
私は黙って名刺を受け取り、袂にいれた。
「探してみますけれど、約束はできませんよ。お勘定をねがいます。」
そのすし屋を出て、家へ帰る途々、頗《すこぶ》るへんな気持ちであった。現代の風潮の一端を見た、と思った。しらじらしいほど、まじめな世紀である。押すことも引くこともできない。家へ帰り、私は再び唖である。黙って妻に、いくぶん軽くなった財布を手渡し、何か言おうとしても、言葉が出ない。お茶漬をたべて、夕刊を読んだ。汽車が走る。イマハ山中《ヤマナカ》、イマハ浜《ハマ》、イマハ鉄橋ワタルゾト思ウマモナク、――その童女の歌が、あわれに聞える。
「おい、炭は大丈夫かね。無くなるという話だが。」
「大丈夫でしょう。新聞が騒ぐだけですよ。そのときは、そのときで、どうにかなりますよ。」
「そうかね。ふとんをしいてくれ。今晩は、仕事は休みだ。」
もう酔いがさめている。酔いがさめると、私は、いつも、なかなか寝つかれない性分なのだ。どさんと大袈裟《おおげさ》に音たてて寝て、また夕刊を読む。ふっと夕刊一ぱいに無数の卑屈な笑顔があらわれ、はっと思う間に消え失せた。みんな、卑屈なのかなあ、と思う。誰にも自信が無いのかなあ、と思う。夕刊を投げ出して、両方の手で眼玉を押しつぶすほどに強くぎゅっとおさえる。しばらく、こうしているうちに、眠たくなって来るような迷信が私にあるのだ。けさの水たまりを思い出す。あの水たまりの在るうちは、――と思う。むりにも自分に
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