そんな、まるで違うのですが、でも、ふっと余生を感じることがありますね。僕は、まさか、ファウスト博士みたいに、まさか、万巻の書を読んだわけでは無いんですが、でも、あれに似た虚無を、ふっと感じることがあるんですね。」ひどくしどろもどろになって来た。
「そんなことじゃ、仕様が無いじゃないですか。あなたは、失礼ですけど、おいくつですか。」
「僕は、三十一です。」
「それじゃ、Cさんより一つ若い。Cさんは、いつ逢っても元気ですよ。文学論でもなんでも、実に、てきぱき言います。あの人の眼は、実にいい。」
「そうですね。Cさんは、僕の高等学校の先輩ですが、いつも、うるんだ情熱的な眼をしていますね。あの人も、これからどんどん書きまくるでしょう。僕は、あの人を好きですよ。」そのCさんにも、私は五年前、たいへんな迷惑をかけている。
「あなたは一体、」と客も私の煮え切らなさに腹が立って来た様子で語調を改め、「小説を書くに当ってどんな信条を持っているのですか。たとえば、ヒュウマニティだとか、愛だとか、社会正義だとか、美だとか、そんなもの、文壇に出てから、現在まで、またこれからも持ちつづけて行くだろうと思われるもの、何か一つでもありますか。」
「あります。悔恨《かいこん》です。」こんどは、打てば響くの快調を以て、即座に応答することができた。「悔恨の無い文学は、屁《へ》のかっぱです。悔恨、告白、反省、そんなものから、近代文学が、いや、近代精神が生れた筈なんですね。だから、――」また、どもってしまった。
「なるほど、」と相手も乗り出して来て、「そんな潮流が、いま文壇に無くなってしまったのですね。それじゃ、あなたは梶井《かじい》基次郎などを好きでしょうね。」
「このごろ、どうしてだか、いよいよ懐かしくなって来ました。僕は、古いのかも知れませんね。僕は、ちっとも自分の心を誇っていません。誇るどころか、実に、いやらしいものだと恥じています。宿業《しゅくごう》という言葉は、どういう意味だか、よく知りませんけれど、でもそれに近いものを自身に感じています。罪の子、というと、へんに牧師さんくさくなって、いけませんが、なんといったらいいのかなあ、おれは悪い事を、いつかやらかした、おれは、汚ねえ奴《やつ》だという意識ですね。その意識を、どうしても消すことができないので、僕は、いつでも卑屈なんです。どうも、自分でも、閉口なのですが、――でも、」言いかけて、またもや、つまずいてしまった。聖書のことを言おうと思ったのだ。私は、あれで救われたことがある、と言おうと思ったのだが、どうもてれくさくて、言えない。いのちは糧《かて》にまさり、からだは衣《ころも》に勝るならずや。空飛ぶ鳥を見よ、播《ま》かず、刈らず、倉に収めず。野の百合《ゆり》は如何《いか》にして育つかを思え、労せず、紡《つむ》がざるなり、されど栄華を極めしソロモンだに、その服装《よそおい》この花の一つにも如《し》かざりき。きょうありて明日、炉に投げ入れらるる野の草をも、神はかく装い給えば、まして汝らをや。汝ら、之《これ》よりも遥かに優《すぐ》るる者ならずや。というキリストの慰めが、私に、「ポオズでなく」生きる力を与えてくれたことが、あったのだ。けれども、いまは、どうにも、てれくさくて言えない。信仰というものは、黙ってこっそり持っているのが、ほんとうで無いのか。どうも、私は、「信仰」という言葉さえ言い出しにくい。
 それから、いろいろとまた、別の話もしたが、来客は、私の思想の歯切れの悪さに、たいへん失望した様子でそろそろ帰り仕度をはじめた。私は、心からお気の毒に感じた。何か、すっきりしたいい言葉が無いものかなあ、と思案に暮れるのだが、何も無い。私は、やはり、ぼんやり間抜顔《まぬけがお》である。きっと私を、いま少し出世させてやろうと思って、私の様子を見に来てくれたのにちがいないと、その来客の厚志が、よくわかっているだけに、なおさら、自身のぶざまが、やり切れない。お客が帰って、私は机の前に呆然と坐って、暮れかけている武蔵野の畑を眺めた。別段、あらたまった感慨もない。ただ、やり切れなく侘《わ》びしい。
 なんじを訴うる者と共に途《みち》に在《あ》るうちに、早く和解せよ。恐らくは、訴うる者なんじを審判人《さばきびと》にわたし、審判人は下役《したやく》にわたし、遂になんじは獄《ひとや》に入れられん。誠に、なんじに告ぐ、一厘《いちりん》も残りなく償わずば、其処《そこ》を出づること能《あた》わじ。(マタイ五の二十五、六。)これあ、おれにも、もういちど地獄が来るのかな? と、ふと思う。おそろしく底から、ごうと地鳴《じなり》が聞えるような不安である。私だけであろうか。
「おい、お金をくれ。いくらある?」
「さあ、四、五円はございましょう。」

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