めく風の便りを受けとつた。いちどは十九歳の元旦。いちどは二十五歳の早春。いまいちどは、つい昨年の冬。ああ。ひとの幸福を語るときの、ねたみといつくしみの交錯したこの不思議なよろこびを、君よ知るや。十九歳の元旦のできごとから物語らう。
そこまで書いて、男は、ひとまづぺンを置いた。やや意に滿ちたやうであつた。さうだ、この調子で書けばいいのだ。やはり小説といふものは、頭で考へてばかりゐたつて判るものではない。書いてみなければ。男は、しみじみさう心のうちで呟き、さうしてたいへんたのしかつたといふ。發見した、發見した。小説は、やはりわがままに書かねばいけないものだ。試驗の答案とは違ふのである。よし。この小説は唄ひながら少しづつすすめてゆかう。けふは、ここまでにして置くのだ。男は、もいちどそつと讀みかへしてみてから、その原稿を押入のなかに仕舞ひ込み、それから、大學の制服を着はじめた。男は、このごろたえて學校へ行かないのであるが、それでも一週間に一二度づつ、かうして制服を着て、そはそは外出するのである。彼等夫婦は或る勤人の二階の六疊と四疊半との二間を借りて住ひしてゐるのであつて、男はその勤人の家族
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