こそ著者であることを知らぬらしかつた。彼はしよげずに、いやこれから賣れると思ふよ、となにげなささうに豫言して置いて、本屋を立ち去つた。その夜、彼は、流石に幾分わづらはしくなつた例の會釋を繰り返しつつ、學校の寮に歸つて來たのである。
それほど輝かしい人生の門出の、第一夜に、鶴は早くも辱かしめられた。
彼が夕食をとりに寮の食堂へ、ひとあし踏みこむや、わつといふ寮生たちの異樣な喚聲を聞いた。彼等の食卓で「鶴」が話題にされてゐたにちがひないのである。彼はつつましげに伏目をつかひながら、食堂の隅の椅子に腰をおろした。それから、ひくくせきばらひしてカツレツの皿をつついたのである。彼のすぐ右側に坐つてゐた寮生がいちまいの夕刊を彼のはうへのべて寄こした。五六人さきの寮生から順々に手わたしされて來たものらしい。彼はカツレツをゆつくり噛み返しつつ、その夕刊へぼんやり眼を轉じた。「鶴」といふ一字が彼の眼を射た。ああ。おのれの處女作の評判をはじめて聞く、このつきさされるやうなをののき。彼は、それでも、あわててその夕刊を手にとるやうなことはしなかつた。ナイフとフオクでもつてカツレツを切り裂きながら、落ちつい
前へ
次へ
全31ページ中24ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
太宰 治 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング