、「鶴」は菊半裁判、百餘頁の美しい本となつて彼の机上に高く積まれた。表紙には、鷲に似た妙な鳥がところせましと翼をひろげてゐた。まづ、その縣のおもな新聞社へ署名して一部づつ贈呈した。一朝めざむればわが名は世に高いさうな。彼には、一刻が百年千年のやうに思はれた。五部十部と街ぢゆふの本屋にくばつて歩いた。ビラを貼つた。鶴を讀め、鶴を讀めと激しい語句をいつばい刷り込んだ五寸平方ほどのビラを、糊のたつぷりはひつたバケツと一緒に兩手で抱へ、わかい天才は街の隅々まで駈けずり廻つた。
 そんな譯ゆゑ、彼はその翌日から町中のひとたちと知合ひになつてしまつたのに何の不思議もなかつた筈である。
 彼はなほも街をぶらぶら歩きながら、誰かれとなくすべてのひとと默禮を交した。運わるく彼の挨拶がむかうの不注意からそのひとに通じなかつたときや、彼が昨晩ほね折つて貼りつけたばかりの電柱のビラが無慙にも剥ぎとられてゐるのを發見するときには、ことさらに仰山なしかめつらをするのであつた。やがて彼は、そのまちでいちばん大きい本屋にはひつて、鶴が賣れるかと、小僧に聞いた。小僧は、まだ一部も賣れんです、とぶあいそに答へた。小僧は彼
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