てその批評を、ちらちらはしり讀みするのであつた。批評は紙面のひだりの隅に小さく組まれてゐた。
 ――この小説は徹頭徹尾、觀念的である。肉體のある人物がひとりとして描かれてゐない。すべて、すり硝子越しに見えるゆがんだ影法師である。殊に主人公の思ひあがつた奇々怪々の言動は、落丁の多いエンサイクロペヂアと全く似てゐる。この小説の主人公は、あしたにはゲエテを氣取り、ゆふべにはクライストを唯一の教師とし、世界中のあらゆる文豪のエツセンスを持つてゐるのださうで、その少年時代にひとめ見た少女を死ぬほどしたひ、青年時代にふたたびその少女とめぐり逢ひ、げろの出るほど嫌惡するのであるが、これはいづれバイロン卿あたりの飜案であらう。しかも稚拙な直譯である。だいいち作者は、ゲエテをもクライストをもただ型としての概念でだけ了解してゐるやうである。作者は、フアウストの一頁も、ペンテズイレエアの一幕も、おそらくは、讀んだことがないのではあるまいか。失禮。ことにこの小説の末尾には、毛をむしられた鶴のばさばさした羽ばたきの音を描冩してゐるのであるが、作者は或ひはこの描冩に依つて、讀者に完璧の印象を與へ、傑作の眩惑を感じさせやうとしたらしいが、私たちは、ただ、この畸形的な鶴の醜さに顏をそむける許りである。
 彼はカツレツを切りきざんでゐた。平氣に、平氣に、と心掛ければ心掛けるほど、おのれの動作がへまになつた。完璧の印象。傑作の眩惑。これが痛かつた。聲たてて笑はうか。ああ。顏を伏せたままの、そのときの十分間で、彼は十年も年老いた。
 この心なき忠告は、いつたいどんな男がして呉れたものか、彼にもいまもつて判らぬのだが、彼はこの屈辱をくさびとして、さまざまの不幸に遭遇しはじめた。ほかの新聞社もやつぱり「鶴」をほめては呉れなかつたし、友人たちもまた、世評どほりに彼をあしらひ、彼を呼ぶに鶴といふ鳥類の名で以てした。わかい群集は、英雄の失脚にも敏感である。本は恥かしくて言へないほど僅少の部數しか賣れなかつた。街をとほる人たちは、もとよりあかの他人にちがひなかつた。彼は毎夜毎夜、まちの辻々のビラをひそかに剥いで廻つた。
 長編小説「鶴」は、その内容の物語とおなじく悲劇的な結末を告げたけれど、彼の心のなかに巣くつてゐる野性の鶴は、それでも、なまなまと翼をのばし、藝術の不可解を嘆じたり、生活の倦怠を託つたり、その荒涼の現實のなかで思ふさま懊惱呻吟することを覺えたわけである。
 ほどなく冬季休暇にはひり、彼はいよいよ氣むづかしくなつて歸郷した。眉根に寄せられた皺も、どうやら彼に似合つて來てゐた。母はそれでも、れいの高等教育を信じて、彼をほれぼれと眺めるのであつた。父はその惡辣ぶつた態度でもつて彼を迎へた。善人どうしは、とかく憎しみ合ふもののやうである。彼は、父の無言のせせら笑ひのかげに、あの新聞の讀者を感じた。父も讀んだにちがひなかつた。たかが十行か二十行かの批評の活字がこんな田舍にまで毒を流してゐるのを知り、彼は、おのれのからだを岩か牝牛にしたかつた。
 そんな場合、もし彼が、つぎのやうな風の便りを受けとつたとしたなら、どうであらう。やがて、ふるさとで十八の歳を送り、十九歳になつた元旦、眼をさましてふと枕元に置かれてある十枚ほどの賀状に眼をとめたといふのである。そのうちのいちまい、差出人の名も記されてないこれは葉書。
 ――私、べつに惡いことをするのでないから、わざと葉書に書くの。またそろそろおしよげになつて居られるころと思ひます。あなたは、ちよつとしたことにでも、すぐおしよげなさるから、私、あんまり好きでないの。誇りをうしなつた男のすがたほど汚いものはないと思ひます。でもあなたは、けつして御自身をいぢめないで下さいませ。あなたには、わるものへ手むかふ心と、情にみちた世界をもとめる心とがおありです。それは、あなたがだまつてゐても、遠いところにゐる誰かひとりがきつと知つて居ります。あなたは、ただすこし弱いだけです。弱い正直なひとをみんなでかばつてだいじにしてやらなければいけないと思ひます。あなたはちつとも有名でありませんし、また、なんの肩書をもお持ちでございません。でも私、をととひギリシヤの神話を二十ばかり讀んで、たのしい物語をひとつ見つけたのです。おほむかし、まだ世界の地面は固つて居らず、海は流れて居らず、空氣は透きとほつて居らず、みんなまざり合つて混沌としてゐたころ、それでも太陽は毎朝のぼるので、或る朝、ヂユーノーの侍女の虹の女神アイリスがそれを笑ひ、太陽どの、太陽どの、毎朝ごくらうね、下界にはあなたを仰ぎ見たてまつる草一本、泉ひとつないのに、と言ひました。太陽は答へました。わしはしかし太陽だ。太陽だから昇るのだ。見ることのできるものは見るがよい。私、學者でもなんでもないの。こ
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