は飽くことを知らぬものである。そのとしの暑中休暇には、彼は見込みある男としての誇りを肩に示して歸郷した。彼のふるさとは本州の北端の山のなかにあり、彼の家はその地方で名の知られた地主であつた。父は無類のおひとよしの癖に惡辣ぶりたがる性格を持つてゐて、そのひとりむすこである彼にさへ、わざと意地わるくかかつてゐた。彼がどのやうなしくじりをしても、せせら笑つて彼を許した。そしてわきを向いたりなどしながら言ふのであつた。人間、氣のきいたことをせんと。さう呟いてから、さも拔け目のない男のやうにふいと全くちがつた話を持ちだすのである。彼はずつと前からこの父をきらつてゐた。蟲が好かないのだつた。幼いときから氣のきかないことばかりやらかしてゐたからでもあつた。母はだらしのないほど彼を尊敬してゐた。いまにきつとえらいものになると信じてゐた。彼が高等學校の生徒としてはじめて歸郷したときにも、母はまづ彼の氣むづかしくなつたのにおどろいたのであつたけれど、しかし、それを高等教育のせゐであらうと考へた。ふるさとに歸つた彼は、怠けてなどゐなかつた。藏から父の古い人名辭典を見つけだし、世界の文豪の略歴をしらべてゐた。バイロンは十八歳で處女詩集を出版してゐる。シルレルもまた十八歳、「群盜」に筆を染めた。ダンテは九歳にして「新生」の腹案を得たのである。彼もまた。小學校のときからその文章をうたはれ、いまは智識ある異國人にさへ若干の頭腦を認められてゐる彼もまた。家の前庭のおほきい栗の木のしたにテエブルと椅子を持ちだし、こつこつと長編小説を書きはじめた。彼のこのやうなしぐさは、自然である。それについては諸君にも心あたりがないとは言はせぬ。題を「鶴」とした。天才の誕生からその悲劇的な末路にいたるまでの長編小説であつた。彼は、このやうにおのれの運命をおのれの作品で豫言することが好きであつた。書きだしには苦勞をした。かう書いた。――男がゐた。四つのとき、彼の心のなかに野性の鶴が巣くつた。鶴は熱狂的に高慢であつた。云々。暑中休暇がをはつて、十月のなかば、みぞれの降る夜、やうやく脱稿した。すぐまちの印刷所へ持つて行つた。父は、彼の要求どほりに默つて二百圓送つてよこした。彼はその書留を受けとつたとき、やはり父の底意地のわるさを憎んだ。叱るなら叱るでいい、太腹らしく默つて送つて寄こしたのが氣にくはなかつた。十二月のをはり、「鶴」は菊半裁判、百餘頁の美しい本となつて彼の机上に高く積まれた。表紙には、鷲に似た妙な鳥がところせましと翼をひろげてゐた。まづ、その縣のおもな新聞社へ署名して一部づつ贈呈した。一朝めざむればわが名は世に高いさうな。彼には、一刻が百年千年のやうに思はれた。五部十部と街ぢゆふの本屋にくばつて歩いた。ビラを貼つた。鶴を讀め、鶴を讀めと激しい語句をいつばい刷り込んだ五寸平方ほどのビラを、糊のたつぷりはひつたバケツと一緒に兩手で抱へ、わかい天才は街の隅々まで駈けずり廻つた。
そんな譯ゆゑ、彼はその翌日から町中のひとたちと知合ひになつてしまつたのに何の不思議もなかつた筈である。
彼はなほも街をぶらぶら歩きながら、誰かれとなくすべてのひとと默禮を交した。運わるく彼の挨拶がむかうの不注意からそのひとに通じなかつたときや、彼が昨晩ほね折つて貼りつけたばかりの電柱のビラが無慙にも剥ぎとられてゐるのを發見するときには、ことさらに仰山なしかめつらをするのであつた。やがて彼は、そのまちでいちばん大きい本屋にはひつて、鶴が賣れるかと、小僧に聞いた。小僧は、まだ一部も賣れんです、とぶあいそに答へた。小僧は彼こそ著者であることを知らぬらしかつた。彼はしよげずに、いやこれから賣れると思ふよ、となにげなささうに豫言して置いて、本屋を立ち去つた。その夜、彼は、流石に幾分わづらはしくなつた例の會釋を繰り返しつつ、學校の寮に歸つて來たのである。
それほど輝かしい人生の門出の、第一夜に、鶴は早くも辱かしめられた。
彼が夕食をとりに寮の食堂へ、ひとあし踏みこむや、わつといふ寮生たちの異樣な喚聲を聞いた。彼等の食卓で「鶴」が話題にされてゐたにちがひないのである。彼はつつましげに伏目をつかひながら、食堂の隅の椅子に腰をおろした。それから、ひくくせきばらひしてカツレツの皿をつついたのである。彼のすぐ右側に坐つてゐた寮生がいちまいの夕刊を彼のはうへのべて寄こした。五六人さきの寮生から順々に手わたしされて來たものらしい。彼はカツレツをゆつくり噛み返しつつ、その夕刊へぼんやり眼を轉じた。「鶴」といふ一字が彼の眼を射た。ああ。おのれの處女作の評判をはじめて聞く、このつきさされるやうなをののき。彼は、それでも、あわててその夕刊を手にとるやうなことはしなかつた。ナイフとフオクでもつてカツレツを切り裂きながら、落ちつい
前へ
次へ
全8ページ中6ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
太宰 治 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング