城下まちの高等學校で英語と獨逸語とを勉強してゐた。彼は英語の自由作文がうまかつた。入學して、ひとつきも經たぬうちに、その自由作文でクラスの生徒たちをびつくりさせた。入學早々、ブルウル氏といふ英人の教師が、What is Real Happiness? といふことについて生徒へその所信を書くやう命じたのである。ブルウル氏は、その授業はじめに、My Fairyland といふ題目でいつぷう變つた物語をして、その翌る週には、The Real Cause of War について一時間主張し、おとなしい生徒を戰慄させ、やや進歩的な生徒を狂喜させた。文部省がこのやうな教師を雇ひいれたことは手柄であつた。ブルウル氏は、チエホフに似てゐた。鼻眼鏡を掛け短い顎鬚を内氣らしく生やし、いつもまぶしさうに微笑んでゐた。英國の將校であるとも言はれ、名高い詩人であるとも言はれ、老けてゐるやうであるが、あれでまだ二十代だとも言はれ、軍事探偵であるとも言はれてゐた。そのやうに何やら神祕めいた雰圍氣が、ブルウル氏をいつそう魅惑的にした。新入生たちはすべて、この美しい異國人に愛されようとひそかに祈つた。そのブルウル氏が、三週間目の授業のとき、だまつてボオルドに書きなぐつた文字が What is Real Happiness? であつた。いづれはふるさとの自慢の子、えらばれた秀才たちは、この輝かしい初陣に、腕によりをかけた。彼もまた、罫紙の塵をしづかに吹きはらつてから、おもむろにぺンを走らせた。[#ここから横組み]Shakespeare said,“[#ここで横組み終わり]――流石におほげさすぎると思つた。顏をあからめながら、ゆつくり消した。右から左から前から後から、ペンの走る音がひくく聞えた。彼は頬杖ついて思案にくれた。彼は書きだしに凝るはうであつた。どのやうな大作であつても、書きだしの一行で、もはやその作品の全部の運命が決するものだと信じてゐた。よい書きだしの一行ができると、彼は全部を書きをはつたときと同じやうにぼんやりした間拔け顏になるのであつた。彼はペン先をインクの壺にひたらせた。なほすこし考へて、それからいきほひよく書きまくつた。[#ここから横組み]Zenzo Kasai, one of the most unfortunate Japanese novelists at present, said,“[#ここで横組み終わり]――葛西善藏は、そのころまだ生きてゐた。いまのやうに有名ではなかつた。一週間すぎて、ふたたびブルウル氏の時間が來た。お互ひにまだ友人になりきれずにゐる新入生たちは、教室のおのおのの机に坐つてブルウル氏を待ちつつ、敵意に燃える瞳を煙草のけむりのかげからひそかに投げつけ合つた。寒さうに細い眉をすぼませて教室へはひつて來たブルウル氏は、やがてほろにがく微笑みつつ、不思議なアクセントでひとつの日本の姓名を呟いた。彼の名であつた。彼はたいぎさうにのろのろと立ちあがつた。頬がまつかだつた。ブルウル氏は、彼の顏を見ずに言つた。 Most Excellent! 教壇をあちこち歩きまはりながらうつむいて言ひつづけた。Is this essay absolutely original? 彼は眉をあげて答へた。Of course. クラスの生徒たちは、どつと奇怪な喚聲をあげた。ブルウル氏は蒼白の廣い額をさつとあからめて彼のはうを見た。すぐ眼をふせて、鼻眼鏡を右手で輕くおさへ、If it is, then it shows great promise and not only this, but shows some brain behind it. と一語づつ區切つてはつきり言つた。彼は、ほんたうの幸福とは、外から得られぬものであつて、おのれが英雄になるか、受難者になるか、その心構へこそほんたうの幸福に接近する鍵である、といふ意味のことを言ひ張つたのであつた。彼のふるさとの先輩葛西善藏の暗示的な述懷をはじめに書き、それを敷衍しつつ筆をすすめた。彼は葛西善藏といちども逢つたことがなかつたし、また葛西善藏がそのやうな述懷をもらしてゐることも知らなかつたのであるが、たとへ嘘でも、それができてあるならば、葛西善藏はきつと許してくれるだらうと思つたのである。そんなことから、彼はクラスの寵を一身にあつめた。わかい群集は英雄の出現に敏感である。ブルウル氏は、それからも生徒へつぎつぎとよい課題を試みた。Fact and Truth. The Ainu. A Walk in the Hills in Spring. Are We of Today Really Civilised? 彼は力いつぱいに腕をふるつた。さうしていつもかなりに報いられるのであつた。若いころの名譽心
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