れだけ書くのにも、ずゐぶん考へたし、なんどもなんども下書しました。あなたがよい初夢とよい初日出をごらんになつて、もつともつと生きることに自信をお持ちなさるやう祈つてゐるもののあることを、お知らせしたくて一生懸命に書きました。こんなことを、だしぬけに男のひとに書いてやるのは、たしなみなくて、わるいことだと思ひます。でも私、恥かしいことは、なんにも書きませんでした。私、わざと私の名前を書かないの。あなたはいまにきつと私をお忘れになつてしまふだらうと思ひます。お忘れになつてもかまはないの。おや、忘れてゐました。新年おめでたうございます。元旦。
(風の便りはここで終らぬ。)
あなたは私をおだましなさいました。あなたは私に、第二、第三の風の便りをも書かせると約束して置きながら、たつぷり葉書二枚ぶんのをかしな賀状の文句を書かせたきりで、私を死なせてしまふおつもりらしゆうございます。れいのご深遠なご吟味をまたおはじめになつたのでございませうか。私、こんなになるだらうといふことは、はじめから知つてゐました。でも私、ひよつとするとあの靈感とやらがあらはれて、どうやら私を生かしきることができるのではないかしら、とあなたのためにも私のためにもそればかりを祈つてゐました。やつぱり駄目なのね。まだお若いからかしら。いいえ、なんにもおつしやいますな。いくさに負けた大將は、だまつてゐるものださうでございます。人の話に依りますと「ヘルマンとドロテア」も「野鴨」も「あらし」も、みんなその作者の晩年に書かれたものださうでございます。ひとに憇ひを與へ、光明を投げてやるやうな作品を書くのに才能だけではいけないやうです。もしも、あなたがこれから十年二十年とこのにくさげな世のなかにどうにかして炬火きどりで生きとほして、それから、もいちど忘れずに私をお呼びくだされたなら、私、どんなにうれしいでせう。きつときつと參ります。約束してよ。さやうなら。あら、あなたはこの原稿を破るおつもり? およしなさいませ。このやうな文學に毒された、もぢり言葉の詩とでもいつたやうな男が、もし小説を書いたとしたなら、まづざつとこんなものだと素知らぬふりして書き加へでもして置くと、案外、世のなかのひとたちは、あなたの私を殺しつぷりがいいと言つて、喝采を送るかも知れません。あなたのよろめくおすがたがさだめし大受けでございませう。そしておかげで私の指さきもそれから脚も、もう三秒とたたぬうちに、みるみる冷くなるでございませう。ほんたうは怒つてゐないの。だつてあなたはわるくないし、いいえ、理窟はないんだ。ふつと好きなの。あああ。あなた、仕合せは外から? さやうなら、坊ちやん。もつと惡人におなり。
男は書きかけの原稿用紙に眼を落してしばらく考へてから、題を猿面冠者とした。それはどうにもならないほどしつくり似合つた墓標である、と思つたからであつた。
底本:「太宰治全集2 小説1」筑摩書房
1998(平成10)年5月25日初版第1刷発行
初出:「鷭 第二輯」
1934(昭和9)年7月
入力:赤木孝之
校正:湯地光弘
1999年6月15日公開
2009年3月2日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前へ 終わり
全8ページ中8ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
太宰 治 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング