aid,“[#ここで横組み終わり]――葛西善藏は、そのころまだ生きてゐた。いまのやうに有名ではなかつた。一週間すぎて、ふたたびブルウル氏の時間が來た。お互ひにまだ友人になりきれずにゐる新入生たちは、教室のおのおのの机に坐つてブルウル氏を待ちつつ、敵意に燃える瞳を煙草のけむりのかげからひそかに投げつけ合つた。寒さうに細い眉をすぼませて教室へはひつて來たブルウル氏は、やがてほろにがく微笑みつつ、不思議なアクセントでひとつの日本の姓名を呟いた。彼の名であつた。彼はたいぎさうにのろのろと立ちあがつた。頬がまつかだつた。ブルウル氏は、彼の顏を見ずに言つた。 Most Excellent! 教壇をあちこち歩きまはりながらうつむいて言ひつづけた。Is this essay absolutely original? 彼は眉をあげて答へた。Of course. クラスの生徒たちは、どつと奇怪な喚聲をあげた。ブルウル氏は蒼白の廣い額をさつとあからめて彼のはうを見た。すぐ眼をふせて、鼻眼鏡を右手で輕くおさへ、If it is, then it shows great promise and not only this, but shows some brain behind it. と一語づつ區切つてはつきり言つた。彼は、ほんたうの幸福とは、外から得られぬものであつて、おのれが英雄になるか、受難者になるか、その心構へこそほんたうの幸福に接近する鍵である、といふ意味のことを言ひ張つたのであつた。彼のふるさとの先輩葛西善藏の暗示的な述懷をはじめに書き、それを敷衍しつつ筆をすすめた。彼は葛西善藏といちども逢つたことがなかつたし、また葛西善藏がそのやうな述懷をもらしてゐることも知らなかつたのであるが、たとへ嘘でも、それができてあるならば、葛西善藏はきつと許してくれるだらうと思つたのである。そんなことから、彼はクラスの寵を一身にあつめた。わかい群集は英雄の出現に敏感である。ブルウル氏は、それからも生徒へつぎつぎとよい課題を試みた。Fact and Truth. The Ainu. A Walk in the Hills in Spring. Are We of Today Really Civilised? 彼は力いつぱいに腕をふるつた。さうしていつもかなりに報いられるのであつた。若いころの名譽心
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