ちつき払って、卓上電話を取り上げ、帳場に、自動車を言いつけた。私は、しめた、と思った。
兄は、けれども少しも笑わずに顔をそむけ、立ち上ってドテラを脱ぎ、ひとりで外出の仕度をはじめた。
「街へ出て見よう。」
「はあ。」ずるい弟は、しんから嬉しかった。
街は、暮れかけていた。兄は、自動車の窓から、街の奉祝の有様を、むさぼるように眺めていた。国旗の洪水である。おさえにおさえて、どっと爆発した歓喜の情が、よくわかるのである。バンザイ以外に、表現が無い。しばらくして兄は、
「よかった!」と一言、小さい声で呟《つぶや》いて、深く肩で息をした。それから、そっと眼鏡《めがね》をはずした。
私は、危く噴き出しそうになった。大正十四年、私が中学校三年の時、照宮さまがお生まれになった。そのころは、私も学校の成績が悪くなかったので、この兄の一ばんのお気に入りであった。父に早く死なれたので、兄と私の関係は、父子のようなものであった。私は冬季休暇で、生家に帰り、嫂《あによめ》と、つい先日の御誕生のことを話し合い、どういうものだか涙が出て困ったという述懐《じゅっかい》に於て一致した。あの時、私は床屋にいて散髪
前へ
次へ
全8ページ中4ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
太宰 治 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング