聞くところに過ぎて我を思うことあらん。我は我が蒙りたる黙示の鴻大《こうだい》なるによりて高ぶることの莫からんために肉体に一つの刺《とげ》を与えらる。即ち高ぶること莫からんために我を撃つサタンの使なり。われ之がために三度まで之を去らしめ給わんことを主に求めたるに、言いたまう、「わが恩恵なんじに足れり。わが能力《ちから》は、弱きうちに全うせらるればなり。」然ればキリストの能力《ちから》の我を庇わんために、寧ろ大いに喜びて我が微弱《よわき》を誇らん。この故に我はキリストの為に、微弱、恥辱、艱難《なやみ》、迫害、苦難に遭うことを喜ぶ。そは我、よわき時に強ければなり。」と言ってみたが、まだ言い足りず、「われ汝らに強いられて愚かになれり、我は汝らに誉《ほ》めらるべかりしなり。我は教うるに足らぬ者なれども、何事にもかの大使徒たちに劣らざりしなり。」と愚痴に似た事をさえ、附け加えている。そうして、おしまいには、群集に、ごめんなさい、ごめんなさいと、あやまっている。まるで、滅茶苦茶である。このコリント後書は、神学者たちにとって、最も難解なものとせられている様であるが、私たちには、何だか、一ばんよくわかる
前へ
次へ
全5ページ中3ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
太宰 治 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング