、僕は戦法をかえて、ことさらに竹さんをほめ挙げ、そうして、色気無しの親愛の情だの、新しい型の男女の交友だのといって、何とかして君を牽制《けんせい》しようとたくらんだ、というのが、これまでのいきさつの、あわれな実相だ。僕は色気が無いどころか、大ありだった。それこそ意馬心猿《いばしんえん》とでもいうべき、全くあさましい有様だったのだ。

     3

 君は竹さんを、凄《すご》いほどの美人だと言って、僕はやっきとなってそれを打ち消したが、それは僕だって、竹さんを凄いほどの美人だと思っていたのさ。この道場へ来た日に、僕は、ひとめ見てそう思った。
 君、竹さんみたいなのが本当の美人なのだ。あの、洗面所の青い電球にぼんやり照らされ、夜明け直前の奇妙な気配の闇《やみ》の底に、ひっそりしゃがんで床板を拭《ふ》いていた時の竹さんは、おそろしいくらい美しかった。負け惜しみを言うわけではないが、あれは、僕だからこそ踏み堪《こた》える事が出来たのだ。他の人だったら、必ずあの場合、何か罪を犯したに違いない。女は魔物だなんて、かっぽれなんかよく言っているが、或いは女は意識せずに一時、人間性を失い、魔性のものになってしまっている事があるのかも知れない。
 今こそ僕は告白する。僕は竹さんに、恋していたのだ。古いも新しいもありゃしない。
 お母さんとわかれて、それから、膝頭《ひざがしら》が、がくがく震えるような気持で歩いて、たまらなく水が飲みたくなって、
「どこかで、少し休みたいな。」と言ったが、その声は、自分ながらおやと思ったほど嗄《しわが》れていて、誰か他の人が遠方で呟《つぶや》いている言葉のような感じがした。
「お疲れでしょう。もう少し行くと、あたしたちが時々寄って休ませてもらう家があるんですけど。」
 大戦の前には三好野《みよしの》か何かしていたような形の家に、マア坊の案内ではいった。薄暗い広い土間には、こわれた自転車やら、炭俵のようなものがころがっていて、その一隅《いちぐう》に、粗末なテーブルがひとつ、椅子《いす》が二、三脚置かれている。そうして、そのテーブルの傍《そば》の壁には大きい鏡がかけられ、へんに気味悪く白く光っているのが印象深かった。この家は商売をよしても、やはり馴染《なじみ》の人たちには、お茶ぐらい出す様子で、道場の助手さんたちが外出した時には、油を売る場所になっているのでもあろう、マア坊は平気で奥の方へ行き、番茶の土瓶《どびん》とお茶碗《ちゃわん》を持って来た。僕たちは鏡の下のテーブルに向い合って席をとり、二人で生ぬるい番茶を飲んだ。ほっと深い溜息《ためいき》をついて、少し気持も楽になり、
「竹さんが結婚するんだって?」と軽い口調で言う事が出来た。
「そうよ。」マア坊もこのごろ、なぜだか淋《さび》しそうだ。寒そうに肩を小さくすぼめて、僕の顔をまっすぐに見ながら、「ご存じじゃ、なかったの?」
「知らなかった。」不意に眼が熱くなって、困って、うつむいてしまった。
「わかるわ。竹さんだって泣いてたわ。」
「何を言っていやがる。」マア坊の、しんみりした口調が、いやらしくて、いやらしくて、むかむか腹が立って来た。「いい加減な事を言っちゃ、いけない。」
「いい加減じゃないわ。」マア坊も涙ぐんでいる。「だから、あたしが言ったじゃないの。竹さんと仲よくしちゃいけないって。」
「仲よくなんか、しやしないよ。そんなに何でも心得ているような事を言うな。いやらしくって仕様がない。竹さんが結婚するのは、いい事だ。めでたいじゃないか。」
「だめよ。あたしは、知っているんですから。ごまかしたって、だめよ。」大きい眼から涙があふれて、まつげに溜《たま》って、それからぽろぽろ頬《ほお》を伝って流れはじめた。「知ってるのよ。知ってるのよ。」

     4

「よせよ。意味が無いじゃないか。」こんなところを、ひとに見られたら困ると思った。「なんの意味もありゃしないじゃないか。」繰返して言ったその僕の言葉も、あまり意味のあるもののようには思えなかった。
「ひばりは、全く、のんきな人ねえ。」と指先で頬の涙を拭きながら、マア坊は少し笑って言った。「いままで、場長さんと竹さんとの事をご存じじゃなかったなんて。」
「そんな下品な事は知らん。」急に、ひどく不愉快になって来た。みんなをぽかぽか殴ってやりたくなって来た。
「何が、下品なの? 結婚って、下品なものなの?」
「いや、そんな事はないが、」僕は口ごもって、「前から、何か、――」
「あらいやだ。そんな事は無いのよ。場長さんは、まじめなお方だわ。竹さんには何も言わないで、竹さんのお父さんのところにお願いにあがったのよ。竹さんのお父さんはいまこっちへ疎開《そかい》して来ているんだって。そうして竹さんのお父さんから、こないだ竹さんに話があって、竹さんは二晩も三晩も泣いてたわ。お嫁に行くのは、いやだって。」
「そんならいい。」僕は、せいせいした。
「どうしていいの? 泣いたからいいの? いやねえ、ひばりは。」と笑いながら言って、顔を横に傾けて、眼の光りが妙に活《い》き活《い》きして来て、右腕をすっと前に出し、卓の上の僕の手を固く握った。「竹さんはね、ひばりが恋しくって泣いたのよ、本当よ。」と言って、更に強く握りしめた。僕も、わけがわからず握りかえした。意味のない握手だった。僕はすぐに馬鹿らしくなって来て、手をひっこめて、
「お茶を、ついであげようか。」とてれかくしに言ってみた。
「いいえ。」とマア坊は眼を伏せて気弱そうに、しかも、きっぱりと、不思議な断り方で断った。
「それじゃ出ようか。」
「ええ。」
 小さく首肯《うなず》いて、顔を挙げた。その顔が、よかった。断然、よかった。完全の無表情で鼻の両側に疲れたような幽《かす》かな細い皺《しわ》が出来ていて、受け口が少しあいて、大きい眼は冷く深く澄んで、こころもち蒼《あお》ざめた顔には、すごい位の気品があった。この気品は、何もかも綺麗《きれい》にあきらめて捨てた人に特有のものである。マア坊も苦しみ抜いて、はじめて、すきとおるほど無慾な、あたらしい美しさを顕現できるような女になったのだ。これも、僕たちの仲間だ。新造の大きな船に身をゆだねて、無心に軽く天の潮路のままに進むのだ。幽かな「希望」の風が、頬を撫《な》でる。僕はその時、マア坊の顔の美しさに驚き「永遠の処女」という言葉を思い出したが、ふだん気障《きざ》だと思っていたその言葉も、その時には、ちっとも気障ではなく、実に新鮮な言葉のように感ぜられた。
「永遠の処女」なんてハイカラな言葉を野暮な僕が使うと、或いは君に笑われるかも知れないが、本当に僕は、あの時、あのマア坊の気高い顔で救われたのだ。
 竹さんの結婚も、遠い昔の事のように思われて、すっとからだが軽くなった。あきらめるとか何とか、そんな意志的なものではなくて、眼前の風景がみるみる遠のいて望遠鏡をさかさに覗《のぞ》いたみたいに小さくなってしまった感じであった。胸中に何のこだわるところもなくなった。これでもう僕も、完成せられたという爽快《そうかい》な満足感だけが残った。

     5

 晩秋の澄んだ青空をアメリカの飛行機が旋回している。僕たちは、その三好野ふうの家の前に立ってそれを見上げて、
「つまらなそうに飛んでいるねえ。」
「ええ。」とマア坊は微笑《ほほえ》む。
「しかし、飛行機というものの形には、新しい美しさがある。むだな飾りが一つも無いからだろうか。」
「そうねえ。」とマア坊は小声で言って、子供のように無心に空の飛行機を見送っている。
「むだな飾りの無い姿って、いいものなんだねえ。」
 それは、飛行機だけでなく、マア坊の放心状態みたいな素直な姿態に就いてのひそかな感懐でもあったのだ。
 二人だまって歩いて、僕は、途《みち》で逢《あ》う女のひとの顔をいちいち注意して見て、程度の差はあるが、いまの女のひとの顔には皆一様に、マア坊みたいな無慾な、透明の美しさがあらわれているように思われた。女が、女らしくなったのだ。しかしそれは、大戦以前の女にかえったというわけでは無い。戦争の苦悩を通過した新しい「女らしさ」だ。何といったらいいのか、鶯《うぐいす》の笹鳴《ささな》きみたいな美しさだ、とでもいったら君はわかってくれるであろうか。つまり、「かるみ」さ。
 お昼すこし前に道場へ帰って来たが、往復半里以上も歩いたから、さすがに疲れて、寝巻に着換えるのもめんどうくさくて、羽織も脱がずにベッドに寝ころがって、そのまま、うとうと眠った。
「ひばり、ごはんや。」
 眼を薄くあけて見ると、竹さんがお膳《ぜん》を持って笑って立っている。
 ああ、場長夫人!
 すぐに、はね起き、
「や、すみません。」と言って、思わず軽く頭を下げた。
「寝ぼけているな。寝ぼすけさん。」とひとりごとのように言って、お膳を枕元《まくらもと》に置き、「着物、着たまま寝ている人があるかいな。いま風邪ひいたら一大事や。早うお寝巻に着換えたらええ。」眉《まゆ》をひそめて不機嫌《ふきげん》そうに言いながら、ベッドの引出しから寝巻を取り出し、「世話の焼けるぼんぼんや。おいで、着換えさしてあげる。」
 僕はベッドから降りて兵古帯《へこおび》をほどいた。いつものとおりの竹さんだ。場長と結婚するなんて、嘘《うそ》みたいに思われて来た。なあんだ、僕はいまうとうと眠って夢を見たのだ。お母さんが来たのも夢、マア坊があの三好野みたいな家で泣いたのも夢、と一瞬そんな気がして嬉《うれ》しかったが、しかし、そうではなかった。
「いい久留米絣《くるめがすり》やな。」竹さんは僕に着物を脱がせて、「ひばりには、とてもよく似合うわよ。マア坊は果報やなあ。帰りに一緒にオバさんとこでお茶を飲んだってな。」
 やはり、夢ではなかった。
「竹さん、おめでとう。」と僕が言った。
 竹さんは返辞をしなかった。黙って、うしろから寝巻をかけてくれて、それから、寝巻の袖口《そでぐち》から手を入れて、僕の腕の附《つ》け根のところを、ぎゅっとかなり強く抓《つね》った。僕は歯を食いしばって痛さを堪《こら》えた。

     6

 何事も無かったように寝巻に着換えて、僕は食事に取りかかり、竹さんは傍《そば》で僕の絣の着物を畳んでいる。お互いに一ことも、ものを言わなかった。しばらくして竹さんが、極めて小さい声で、
「かんにんね。」と囁《ささや》いた。
 その一言に、竹さんの、いっさいの思いがこめられてあるような気がした。
「ひどいやつや。」と僕は、食事をしながら竹さんの言葉の訛《なま》りを真似《まね》てそっと呟《つぶや》いた。
 そうしてこの一言にも、僕のいっさいの思いがこもっているような気がした。
 竹さんはくすくす笑い出して、
「おおきに。」と言った。
 和解が出来たのである。僕は竹さんの幸福を、しんから祈りたい気持になった。
「いつまでここにいるの?」
「今月一ぱい。」
「送別会でもしようか。」
「おお、いやらし!」
 竹さんは大袈裟に身震いして、畳んだ着物をさっさと引出しにしまい込み、澄まして部屋から出て行った。どうして僕の周囲の人たちは、皆こんなにさっぱりした、いい人ばかりなのだろう。いま僕はこの手紙を、午後一時の講話を聞きながら書いているのだが、きょうの講話は、どなたが放送していらっしゃるか、わかりますか? およろこび下さい。大月花宵先生です。大月先生の当道場に於けるこのごろの人気はたいへんなものですよ。もう越後獅子《えちごじし》なんて失礼な綽名《あだな》では呼べなくなった。君が発見して、それから、二、三日は僕も我慢して誰にも言わずにいたが、とうとうマア坊にこっそり教えて、たちまち噂《うわさ》がぱっとひろがり、何せ「オルレアンの少女」の作者だという事で無条件に尊敬せられ、場長も巡回の時に、花宵先生に向って、いままで知らずに失礼しました、という意味のおわびを言ったくらいだ。
 新館はもちろん、旧館の塾生《じゅくせい》たちからも、詩、和歌、俳句の添削依頼が殺到している
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