後の顔色をうかがった。
「直しておやり。」越後も食事がすんだらしく爪楊枝《つまようじ》を使いながら、にやにや笑って言った。どうも、けさは機嫌《きげん》がよすぎて、かえって気味が悪い。
娘さんは顔を赤くして、ためらいながらも枕元に寄って来て、菊の花をみんな花瓶《かびん》から抜いて、挿し直しに取りかかった。いいひとに直してもらえて、僕はとても嬉《うれ》しかった。
越後はベッドの上に大きくあぐらを掻《か》いて、娘さんの活花《いけばな》の手際《てぎわ》をいかにも、たのしそうに眺めながら、
「もういちど、詩を書くかな。」と呟いた。
下手な事を言って、また、呶鳴《どな》られるといけないから、僕は黙っていた。
「ひばりさん、きのうは失敬。」と言って、ずるそうに首をすくめた。
「いいえ、僕こそ、生意気な事を言って。」
実に、思いがけず、あっさりと和解が出来た。
「また、詩を書くかな。」ともう一度、同じ事を繰り返して言った。
「書いて下さい。本当に、どうか、僕たちのためにも書いて下さい。先生の詩のように軽くて清潔な詩を、いま、僕たちが一ばん読みたいんです。僕にはよくわかりませんけど、たとえば、モオツァルトの音楽みたいに、軽快で、そうして気高く澄んでいる芸術を僕たちは、いま、求めているんです。へんに大袈裟《おおげさ》な身振りのものや、深刻めかしたものは、もう古くて、わかり切っているのです。焼跡の隅《すみ》のわずかな青草でも美しく歌ってくれる詩人がいないものでしょうか。現実から逃げようとしているのではありません。苦しさは、もうわかり切っているのです。僕たちはもう、なんでも平気でやるつもりです。逃げやしません。命をおあずけ申しているのです。身軽なものです。そんな僕たちの気持にぴったり逢うような、素早く走る清流のタッチを持った芸術だけが、いま、ほんもののような気がするのです。いのちも要らず、名も要らずというやつです。そうでなければ、この難局を乗り切る事が絶対に出来ないと思います。空飛ぶ鳥を見よ、です。主義なんて問題じゃないんです。そんなものでごまかそうたって、駄目です。タッチだけで、そのひとの純粋度がわかります。問題は、タッチです。音律です。それが気高く澄んでいないのは、みんな、にせものなんです。」
僕は、不得手な理窟《りくつ》を努力して言ってみた。言ってから、てれくさく思った。言わなければよかったと思った。
7
「そんな時代に、なったかなあ。」花宵先生は、タオルで鼻の頭を拭《ふ》いて、仰向けに寝ころがり、「とにかく早くここから出なくちゃいけない。」
「そうです、そうです。」
僕は、この道場へ来てはじめて、その時、ああ早く頑丈《がんじょう》なからだになりたいとひそかに焦慮したよ。もったいない事だが、天の潮路を、のろくさく感じた。
「君たちは別だ。」と先生は、僕のそんな気持を、さすがに敏感に察したらしく、「あせる事はない。落ちついてここで生活していさえすれば、必ず、なおる。そうして立派に日本再建に役立つ事が出来る。でも、こっちはもう、としをとってるし、」と言いかけた時に、娘さんがどうやら活花を完成させたらしく、
「まえよりかえって、わるくなったようですわ。」と明るい口調で言い、父のベッドに近寄り、こんどは極めて小さい声で、「お父さん! また、愚痴を言ってるのね。いまどき、そんなの、はやらないわよ。」ぷんぷん怒っている。
「わが述懐もまた世に容《い》れられずか。」越後はそう言って、それでも、ひどく嬉しそうに、うふうふと笑った。
僕もさっきの不覚の焦燥《しょうそう》などは綺麗に忘れ、ひどく幸福な気持で微笑《ほほえ》んだ。
君、あたらしい時代は、たしかに来ている。それは羽衣のように軽くて、しかも白砂の上を浅くさらさら走り流れる小川のように清冽《せいれつ》なものだ。芭蕉《ばしょう》がその晩年に「かるみ」というものを称えて、それを「わび」「さび」「しおり」などのはるか上位に置いたとか、中学校の福田和尚先生から教わったが、芭蕉ほどの名人がその晩年に於いてやっと予感し、憧憬《しょうけい》したその最上位の心境に僕たちが、いつのまにやら自然に到達しているとは、誇らじと欲《ほっ》するも能《あた》わずというところだ。この「かるみ」は、断じて軽薄と違うのである。慾《よく》と命を捨てなければ、この心境はわからない。くるしく努力して汗を出し切った後に来る一陣のその風だ。世界の大混乱の末の窮迫の空気から生れ出た、翼のすきとおるほどの身軽な鳥だ。これがわからぬ人は、永遠に歴史の流れから除外され、取残されてしまうだろう。ああ、あれも、これも、どんどん古くなって行く。君、理窟も何も無いのだ。すべてを失い、すべてを捨てた者の平安こそ、その「かるみ」だ。
けさ、越後に向って極めて下手くそな芸術論みたいな事を述べて、それからひどくてれくさい思いをしたが、でも、越後の娘さんもまた僕たちのひそかな支持者らしいという事に気がついて、大いに自信を得て、さらにここに新しい男としての気焔《きえん》を挙げさせていただき、前説の補足を試みた次第である。
ついでながら、君の当道場に於ける評判も、はなはだよろしい。大いに気をよくして、いただきたい。君がちょっとこの道場を訪問しただけで、この道場の雰囲気《ふんいき》が、急に明るくなったといってもあながち過言ではないようだ。だいいち、花宵先生が十年も若返った。竹さんも、マア坊も、君によろしくと言っている。マア坊の曰《いわ》く、
「いい眼をしているわね。天才みたいね。まつげが長くて、まばたきするたんびに、パチンパチンという音が聞えた。」マア坊の言うことは大袈裟である。信じないほうがいい。竹さんの批評を御紹介しようか。そんなに固くならずに、平然とお聞き流しを願う。竹さんの曰く、
「ひばりとは、いい取組みや。」
それだけである。但《ただ》し、顔を赤くして言った。以上。
十月二十九日
竹さん
1
謹啓。きょうは、かなしいお知らせを致します。もっとも、かなしいといっても、恋しいという字にカナしいと振仮名をつけたみたいな、妙な気持のカナしさだ。竹さんがお嫁に行くのだ。どこへお嫁入りするかというと、場長さんだ。ここの健康道場場長、田島医学博士その人のところに、お輿入《こしい》れあそばすのだ。僕はきょうマア坊からその事を聞いた。
まあ、はじめから話そう。
けさは、お母さんが僕の着換えやら、何やらどっさり持って道場へお見えになった。お母さんは、月に二度ずつ僕の身のまわりのものを整理しにやって来るのだ。僕の顔をのぞき込んで、
「そろそろ、ホームシックかな?」とからかう。まいどの事だ。
「或《ある》いはね。」と僕も、わざと嘘《うそ》を言う。これも、まいどの事だ。
「きょうはお母さんを、小梅橋までお見送りして下さるんだそうですね。」
「誰《だれ》が?」
「さあ、どなたでしょうか。」
「僕? 外へ出てもいいの? お許しが出たの?」
お母さんは首肯《うなず》いて、
「でも、いやだったら、よござんす。」
「いやなもんか。僕はもう一日に十里だって歩けるんだ。」
「或いはね。」とお母さんは、僕の口真似《くちまね》をして言った。
四箇月振りで、寝巻を脱ぎ絣《かすり》の着物を着て、お母さんと一緒に玄関へ出ると、そこに場長が両手をうしろに組んで黙って立っていた。
「歩けますか、どうですか。」とお母さんがひとりごとのようにして言って笑ったら、
「男のお子さんは、満一歳から立って歩けます。」と場長さんは、にこりともせず、そんな下手な冗談を言って、「助手をひとりお供させます。」
事務所からマア坊が白い看護婦服の上に、椿《つばき》の花模様の赤い羽織をひっかけて、小走りに走って出て来て、お母さんに、どぎまぎしたような粗末なお辞儀をした。お供は、マア坊だ。
僕は新しい駒下駄《こまげた》をはいて、まっさきに外へ出た。駒下駄がへんに重くて、よろめいた。
「おっとと、あんよは上手。」と場長は、うしろで囃《はや》した。その口調に、愛情よりも、冷く強い意志を感じた。だらしないぞ! と叱《しか》られたような気がして、僕は、しょげた。振り向きもせず、すたすた五、六歩いそぎ足で歩いたら、また、うしろで場長が、
「はじめは、ゆっくり。はじめは、ゆっくり。」と、こんどは露骨に叱り飛ばすようなきびしい口調で言ったが、かえってその言葉のほうに、うれしい愛情が感ぜられた。
僕は、ゆっくり歩いた。お母さんとマア坊が、小声で何か囁《ささや》き合いながら、僕の後を追って来た。松林を通り抜けて、アスファルトの県道へ出たら、僕は軽い眩暈《めまい》を感じて、立ちどまった。
「大きいね。道が大きい。」アスファルト道が、やわらかい秋の日ざしを受けて鈍く光っているだけなのだが、僕には、それが一瞬、茫洋混沌《ぼうようこんとん》たる大河のように見えたのだ。
「無理かな?」お母さんは笑いながら、「どうかな? お見送りは、このつぎに、お願いするとしましょうか?」
2
「平気、平気。」ことさらに駒下駄の音をカタカタと高く響かせて歩いて、「もう馴《な》れた。」と言った途端に、トラックが、凄《すさま》じい勢いで僕を追い抜き、思わず僕は、わぁっ! と叫んだ。
「大きいね。トラックが大きいね。」とお母さんはすぐに僕の口真似をしてからかった。
「大きくはないけど、強いんだ。すごい馬力だ。たしかに十万馬力くらいだった。」
「さては、いまのは原子トラックかな?」お母さんも、けさは、はしゃいでいる。
ゆっくり歩いて、小梅橋のバスの停留場が近くなった頃《ころ》、僕は実に意外な事を聞いた。お母さんと、マア坊が、歩きながらよもやまの話の末に、
「場長さんが近く御結婚なさるとか、聞きましたけど?」
「はあ、あの、竹中さんと、もうすぐ。」
「竹中さんと? あの、助手さんの。」と、お母さんも驚いていたようであったが、僕はその百倍も驚いた。十万馬力の原子トラックに突き倒されたほどの衝動を受けた。
お母さんのほうはすぐ落ちついて、
「竹中さんは、いいお方ですものねえ。場長さんはさすがに、眼《め》がお高くていらっしゃる。」と言って、明るく笑い、それ以上突っ込んだ事も聞かず、おだやかに他《ほか》の話に移って行った。
僕は停留場で、どんな具合いにお母さんとお別れしたか、はっきり思い出せない。ただ眼のさきが、もやもやして、心臓がコトコトと響を立てて躍っているみたいな按配《あんばい》で、あれは、まったく、かなわない気持のものだ。
僕は白状する。僕は、竹さんを好きなのだ。はじめから、好きだったのだ。マア坊なんて、問題じゃなかったのだ。僕は、なんとかして竹さんを忘れようと思って、ことさらにマア坊のほうに近寄って行って、マア坊を好きになるように努めて来たのだが、どうしても駄目《だめ》なんだ。君に差し上げる手紙にも、僕はマア坊の美点ばかりを数え挙げて、竹さんの悪口をたくさん書いたが、あれは決して、君をだますつもりではなく、あんな具合いに書くことに依《よ》って僕は、僕の胸の思いを消したかったのだ。さすがの新しい男も、竹さんの事を思うと、どうも、からだが重くなって、翼が萎縮《いしゅく》し、それこそ豚のしっぽみたいな、つまらない男になりそうな気がするので、なんとかして、ここは、新しい男の面目にかけても、あっさりと気持を整理して、竹さんに対して全く無関心になりたくて、われとわが心を、はげまし、はげまし、竹さんの事をただ気がいいばかりの人だの、大鯛《おおだい》だの、買い物が下手くそだのと、さんざん悪口を言って来た僕の苦衷のほどを、君、すこしは察してくれ給《たま》え。そうして、君も僕に賛成して一緒に竹さんの悪口を言ってくれたら、あるいは僕も竹さんを本当にいやになって、身軽になれるかも知れぬとひそかに期待していたのだけれども、あてがはずれて、君が竹さんに夢中になってしまったので、いよいよ僕は窮したのさ。そこで、こんどは
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