物を配すべきだと思うんだ。」
「そうだ。報酬ばかり考えているような人間では駄目だ。」
「そうとも、そうとも。功利性のごまかしで、うまく行く筈はないんだ。おとなの駈引《かけひ》きは、もうたくさんだ。」
「全くさ。表面のハッタリなんて古いよ。見え透いてるじゃないか。」
君も、僕と同じくらいに議論は下手のようである。僕たちは、なんだか、同じ様な事ばかり繰り返し繰り返し言っていたようだったぜ。
そうして、そのうちに僕たちのその下手な議論もだんだん途切れがちになって来て、「単なる」とか「要するに」とか「とにかく」とか「結局」とかいう言葉ばかりたくさん飛び出て、だれてしまって、その時、下の玄関の前の芝生にひょいと竹さんが現われた。僕は思わず、
「竹さん!」と呼んだ。君は同時にズボンのバンドをしめ上げたね。あれは、どういう意味なんだい? 竹さんは右手を額にあてて、バルコニイを見上げ、
「何や?」と言って笑ったが、あの時の竹さんの姿態は悪くなかったじゃないか。
「竹さんを、とても好きだと言ってる人が、いまここに来ているんだ。」
「よせ、よせ。」と君は言った。実際、あんな時には、よせ、よせ、という間の抜けた言葉しか出ないものなんだ。僕にも経験がある。
3
「いやらし!」と竹さんが言ったね。それから首を四十五度以上も横に傾けて、君に向って、「いらっしゃいまし。」と笑いながら言ったら君は、顔を真赤にして、ぴょこんとお辞儀をしたね。それから君は不平そうに小声で、
「なんだ、すごい美人じゃないか。馬鹿《ばか》にしてやがる。君はまた、ただ大きくて堂々とした立派なひとだと手紙に書いてたもんだから、僕は安心してほめてたんだが、なあんだ、スゴチンじゃないか。」
「予想と違ったかね。」
「違った、違った、大違い。堂々として立派なんて言うから、馬みたいなひとかと思っていたら、なあんだ、あれは、すらりとしているとでも形容しなくちゃいけない。色だって、そんなに黒くないじゃないか。あんな美人は、僕はいやだ。危険だ。」などと早口で言っているうちに竹さんは、軽く会釈《えしゃく》して旧館のほうに行ってしまいそうになったので、君はあわてて、
「ちょっと、君、ちょっと竹さんを呼びとめてくれ給《たま》え。お土産があるんだ。」とポケットをさぐり、れいの小型辞典を取り出した。
「竹さん!」と僕が大声で言って呼びとめたら、
「失礼ですけど、ほうりますよ。これは、ひばりから、たのまれたんです。僕からじゃありませんよ。」と君が、颯《さ》っと赤い表紙の可愛い辞典を投げてやったところなんかは、やっぱりあざやかなものだった。僕は、ひそかに君に敬服した。竹さんは、君の清潔な贈り物を上手に胸に受けとめて、
「おおきに。」と、君に向って、お礼を言ったね。君が何と言ったって、竹さんは、君からの贈り物だという事を知っているのだ。旧館のほうに歩いて行く竹さんのうしろ姿を眺《なが》めながら、君は溜息《ためいき》をついて、
「危険だ、あれは危険だ。」とひどく真面目《まじめ》に呟《つぶや》くので、僕は可笑《おか》しかった。
「危険なもんか。真暗い部屋にたった二人きりでいたって大丈夫なひとだよ。僕は、もう試験ずみだ。」
「君は、とんちんかんだからねえ。」と僕をあわれむような口調で言って、「君には美人、不美人の区別がわからんのじゃないか?」
僕は、むっとした。君こそ、なんにも、わからないくせに。竹さんが君に、そんなに美しく見えたとしたら、それは、竹さんの心の美しさが、君の素直な心に反映したのだ。冷静に観察すると、竹さんなんか、ちっとも美人じゃない。マア坊のほうが、はるかに綺麗《きれい》だ。竹さんの品性の光が、竹さんを美しく見せているだけの話だ。女の容貌《ようぼう》に就いては、僕のほうが君より数等きびしい審美眼を具有しているつもりだがね。けれども、あの時、女の顔の事などで議論するのは、下品な事のように思われたから、僕は黙っていたのだ。どうも、竹さんの事になると、僕たちはむきになってしまって、ちょっと気まずくなる傾向があるようだ。よろしくないね。本当に、君、僕を信じてくれ給え。竹さんは美人じゃないよ。危険な事なんか無いんだ。危険だなんて、可笑しいじゃないか。竹さんは、君と同じくらい、ただ生真面目《きまじめ》な人なんだ。
僕たちは、しばらく黙ってバルコニイに立っていたが、ふいと君が、お隣りの越後獅子は大月花宵《おおつきかしょう》という有名な詩人だという事を言い出したので、竹さんの事も何も吹っ飛んでしまった。
4
「まさか。」僕は夢見るようであった。
「どうも、そうらしい。さっき、ちらと見て、はっと思ったんだ。僕の兄貴たちは皆あの人のファンで、それで僕も小さい時からあの人の顔は写真で見てよく知っているんだ。僕もあの人の詩のファンだった。君だって、名前くらいは知っているだろう。」
「そりゃ、知っている。」
僕は、どうも詩というものは苦手だけれども、それでも、大月花宵の姫百合《ひめゆり》の詩や、鴎《かもめ》の詩は、いまでも暗誦《あんしょう》できるくらいによく知っている。その詩の作者と僕は、この数箇月ベッドを並べて寝ていたとは、にわかに信じられぬ事であった。僕には詩というものがちっともわからぬけれども、君も御存じのとおり、天才の詩人というものを尊敬する事に於《お》いては、敢《あ》えて人後に落ちないつもりだ。
「あのひとが、ねえ。」しばらくは、感無量であった。
「いや、はっきりした事はわからんよ。」と君は少しうろたえて、「さっき、ちらと見ただけなんだから。」
とにかくそれでは、もっと、こまかに観察してみようという事になり、そろそろ日曜慰安放送の時間もせまって来ていたし、僕たちは階下の「桜の間」に帰った。越後は寝ていた。僕には、あの時ほど越後が立派に見えた事は無い。それこそ、まさに、眠れる獅子のように見えた。僕たちは顔を見合せ、ひそかに首肯《うなず》き、二人一緒に思わず深い溜息をついたっけね。緊張のあまり、僕たちは、話も何もろくに出来ず、窓を背にして立ったまま、ただ黙ってレコオドの放送を聞いていたっけ。番組が進んで、いよいよその日の呼び物の助手さんたちの二部合唱「オルレアンの少女」がはじまった時、君は右肘《みぎひじ》で僕の横腹を強く突いて、
「この歌は、花宵先生が作ったんだ。」とひどく興奮の態《てい》で囁《ささや》いてくれたが、そう言われて僕も思い出した。僕が子供の頃《ころ》に、この歌は、花宵先生の傑作として、少年雑誌に挿画《さしえ》入りで紹介せられたりなどして、大はやりのものであった。僕たちは、ひそかに越後の表情を注視した。越後はそれまでベッドの上に仰向けに寝て、軽く眼を閉じていたのだが、「オルレアンの少女」の合唱がはじまったら眼をひらいて、こころもち枕から頭をもたげるようにして耳を澄まし、やがてまたぐったりとなって眼をつぶって、ああ、眼をつぶったまま、とても悲しそうに幽《かす》かに笑った。君は、右手でこぶしを作って空間を打つような、妙な仕草をして、それから僕に握手を求めた。僕たちは、ちっとも笑わずに、固く握手を交したっけね。いま思うと、あれはいったい何のための握手だったのか、わけがわからないけれども、あの時には、とてもじっとしては居られず握手でもしなければ、おさまらぬ気持だったものね。君も僕も、ずいぶん興奮していた。「オルレアンの少女」が済んだ時、君は、
「じゃあ、失礼しよう。」と奇怪な嗄《しわが》れた声で言い、僕も首肯いて、君を送って廊下へ出て、
「たしかだ!」と二人、同時に叫んだ。
5
ここまでの事は、君もご存じの筈だが、さて、君とわかれて、ひとりで部屋へ引返した時には、僕の気持は興奮を通り越して、ほとんど蒼《あお》ざめるほどの恐怖の状態であった。わざと越後を見ないようにして、僕はベッドに仰向けに寝ころがったが、不安と恐怖と焦躁とが奇妙にいりまじった落ちつかない気持で、どうにも、かなわなくなって、とうとう小さい声で、
「花宵先生!」と呼びかけてしまった。
返辞が無い。僕は、思い切って、ぐいと花宵先生のほうに顔をねじ向けた。越後は黙々として屈伸鍛錬をはじめている。僕も、あわてて運動にとりかかった。脚を大の字にひらき、両方の手の指を、小指から順に中へ折り込みながら、
「あの歌を誰《だれ》が作ったか、なんにも知らずに歌っていたんでしょうね。」と割に落ちついて尋ねる事が出来た。
「作者なんか、忘れられていいものだよ。」と平然と答えた。いよいよ、この人が、花宵先生である事は間違い無いと思った。
「いままで、失礼していました。さっき友人に教えられて、はじめて知ったのです。あの友人も僕も、小さい頃から、あなたの詩が好きでした。」
「ありがとう。」と真面目に言って、「しかし、いまでは越後のほうが気楽だ。」
「どうして、このごろ詩をお書きにならないのですか。」
「時代が変ったよ。」と言って、ふふんと笑った。
胸がつまって僕は、いい加減の事は言えなくなった。しばらく二人、黙って運動をつづけた。突如、越後が、
「人の事なんか気にするな! お前は、ちかごろ、生意気だぞ!」と、怒り出した。僕は、ぎょっとした。越後が、こんな乱暴な口調で僕にものを言ったのは、いままで一度も無かった。とにかく早くあやまるに限る。
「ごめんなさい。もう言いません。」
「そうだ。何も言うな。お前たちには、わからん。何も、わからん。」
実に、まったく、気まずい事になってしまった。詩人というものは、こわいものだ。何が失礼に当るか、わかったもんじゃない。その日一日、僕たちは一ことも言葉を交さなかった。助手さんたちが摩擦に来て、僕にいろいろ話かけても、僕は終始ふくれた顔をして、ろくに返辞もしなかった。内心は、マア坊なんかに、お隣りの越後こそ実に「オルレアンの少女」の作者なのだという事を知らせて、驚ろかしてやりたくて、うずうずしていたのだが、越後から「何も言うな」と口どめされているし、まあ、仕方なく、ゆうべは泣き寝入りの形だったのだ。
けれども、けさ、思いがけなく、この激怒せる花宵先生と、あっさり和解できて、ほっとした。けさ、久し振りで越後の娘さんが、越後を見舞いにやって来た。キヨ子さんといって、マア坊と同じくらいの年恰好《としかっこう》で、痩《や》せて、顔色の悪い、眼の吊《つ》り上ったおとなしい娘さんだ。僕たちは、ちょうど朝ごはんの最中だった。娘さんは、持って来た大きい風呂敷《ふろしき》包をほどきながら、
「つくだ煮を少し作って来ましたけど。」
「そうか。いますぐいただこう。出しなさい。お隣りのひばりさんにも半分あげなさい。」
おや? と思った。越後は今まで僕を呼ぶのに、そちらの先生だの、書生さんだの、小柴《こしば》君だのというばかりで、ひばりさんなんて変に親しげな呼び方をした事は一度も無かったのだ。
6
娘さんは、僕のところへ、つくだ煮を持って来た。
「いれものが、ございますかしら。」
「はあ、いや、」僕は、うろたえて、「そこの戸棚《とだな》に。」と言いながら、ベッドから降りかけたら、
「これでございますか?」娘さんは、しゃがんで僕のベッドの下の戸棚から、アルマイトの弁当箱を取り出した。
「はあ、そうです。すみません。」
ベッドの下にうずくまって、つくだ煮をその弁当箱に移しながら、
「いま、おあがりになります?」
「いいえ、もう、食事はすみました。」
娘さんは弁当箱をもとの戸棚に収めて立ち上り、
「まあ、綺麗《きれい》。」
と君が滅茶苦茶《めちゃくちゃ》に投げ入れて行ったあの菊の花をほめたのだ。君があの時、竹さんに直してもらえ、なんて要らない事を言ったので、なんだか竹さんに頼むのも、てれくさくなって、また、マア坊に頼むのも、わざとらしいし、あの花は、ついあのままになっていたのだ。
「きのう友人が、いい加減に挿《さ》して行ったのです。直してくれるひとも無いし。」
娘さんは、ちらと越
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