もないんだ。僕たちは、死と紙一枚の隣合せに住んでいるので、もはや死に就いておどろかなくなっているだけだ。この一点を、どうか忘れずにいてくれ給え。僕のこれまでの手紙を見て、君はきっと、この日本の悲憤と反省と憂鬱《ゆううつ》の時期に、僕の周囲の空気だけが、あまりにのんきで明るすぎる事を、不謹慎のように感じたに違いない。それは無理もない事だ。しかし、僕だって阿呆《あほう》ではない。朝から晩まで、ただ、げたげた笑って暮しているわけではない。それは、あたり前の事だ。毎夜、八時半の報告の時間には、さまざまのニュウスを聞かされる。黙って毛布をかぶって寝ても、眠られない夜がある。しかし僕は、いまはそんなわかり切った事はいっさい君に語りたくないのだ。僕たちは結核患者だ。今夜にも急に喀血《かっけつ》して、鳴沢さんのようになるかも知れない人たちばかりなのだ。僕たちの笑いは、あのパンドラの匣《はこ》の片隅《かたすみ》にころがっていた小さな石から発しているのだ。死と隣合せに生活している人には、生死の問題よりも、一輪の花の微笑が身に沁《し》みる。僕たちはいま、謂《い》わば幽《かす》かな花の香にさそわれて、何だかわからぬ大きな船に乗せられ、そうして天の潮路のまにまに身をゆだねて進んでいるのだ。この所謂《いわゆる》天意の船が、どのような島に到達するのか、それは僕も知らない。けれども、僕たちはこの航海を信じなければならぬ。死ぬのか生きるのか、それはもう人間の幸不幸を決する鍵《かぎ》では無いような気さえして来たのだ。死者は完成せられ、生者は出帆の船のデッキに立ってそれに手を合せる。船はするする岸壁から離れる。
「死はよいものだ。」
それはもう熟練の航海者の余裕にも似ていないか。新しい男には、死生に関する感傷は無いんだ。
九月八日
マア坊
1
さっそくの御返事、なつかしく拝読しました。こないだ、僕は、「死はよいものだ」などという、ちょっと誤解を招き易《やす》いようなあぶない言葉を書き送ったが、それに対して君は、いちぶも思い違いするところなく、正確に僕の感じを受取ってくれた様子で、実にうれしく思った。やっぱり、時代、という事を考えずには居られない。あの、死に対する平静の気持は、一時代まえの人たちには、どうしても理解できないのではあるまいか。「いまの青年は誰《だれ》でも死と隣り合せの生活をして来ました。敢《あ》えて、結核患者に限りませぬ。もう僕たちの命は、或《あ》るお方にささげてしまっていたのです。僕たちのものではありませぬ。それゆえ、僕たちは、その所謂天意の船に、何の躊躇《ちゅうちょ》も無く気軽に身をゆだねる事が出来るのです。これは新しい世紀の新しい勇気の形式です。船は、板一まい下は地獄と昔からきまっていますが、しかし、僕たちには不思議にそれが気にならない。」という君のお手紙の言葉には、かえってこっちが一本やられた形です。君からいただいた最初のお手紙に対して、「古い」なんて乱暴な感想を吐いた事に就いては、まじめにおわびを申し上げなければならぬ。
僕たちは決して、命を粗末にしているわけではない。しかしまた、死に対していたずらに感傷に沈み、或いは、恐れおびえてもいないのだ。その証拠には、あの鳴沢イト子さんの白布に包まれた美しく光る寝棺を見送ってから、僕はもう、マア坊だの竹さんだのの事はすっかり忘れて、まるできょうの秋空のように高く澄んだ心境でベッドに横たわり、そうして廊下では、塾生《じゅくせい》と助手が、れいの如《ごと》く、
「やっとるか。」
「やっとるぞ。」
「がんばれよ。」
「ようし来た。」
という挨拶《あいさつ》を交しているのを聞き、それがいつものようなふざけ半分の口調でなくて、何だか真剣な響きのこもっているのに気がついた。そうして、そのように素直に緊張して叫んでいる塾生たちに、僕はかえって非常に健康なものを感じた。少し気取った言い方をするなら、その日一日、道場全体が神聖な感じであった。僕は信じた。死は決して、人の気持を萎縮《いしゅく》させるものではない、と。
僕たちのこんな感想を、幼い強がりとか、或いは絶望の果のヤケクソとしか理解できない古い時代の人たちは、気の毒なものだ。古い時代と、新しい時代と、その二つの時代の感情を共に明瞭《めいりょう》に理解する事のできる人は、まれなのではあるまいか。僕たちは命を、羽のように軽いものだと思っている。けれどもそれは命を粗末にしているという意味ではなくて、僕たちは命を羽のように軽いものとして愛しているという事だ。そうしてその羽毛は、なかなか遠くへ素早く飛ぶ。本当に、いま、愛国思想がどうの、戦争の責任がどうのこうのと、おとなたちが、きまりきったような議論をやたらに大声挙げて続けているうちに、
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