僕たちは、その人たちを置き去りにして、さっさと尊いお方の直接のお言葉のままに出帆する。新しい日本の特徴は、そんなところにあるような気さえする。
鳴沢イト子の死から、とんでもない「理論」が発展したが、僕はどうもこんな「理論」は得手じゃない。新しい男は、やっぱり黙って新造の船に身をゆだねて、そうして不思議に明るい船中の生活でも報告しているほうが、気が楽だ。どうだい、また一つ、女の話でもしようかね。
2
君のお手紙では、君は、ばかに竹さんを弁護しているようじゃないか。そんなに好きなら、竹さんに君から直接、手紙でも出すがよい。いや、それよりも、まあ、いちど逢《あ》ってごらん。そのうち、おひまの折に、僕を見舞いに、ではなくて竹さんを拝見しに、この道場へおいでになるといい。拝見したら、幻滅しますよ。何せ、どうにも、立派な女なのだから。腕力だって、君より強いかも知れない。お手紙に依《よ》ると、君は、マア坊が泣いた事なんか、少しも問題ではないが、竹さんの、「うち、気がもめる」が、大事件だ、というお説のようだが、それは僕だって考えてみたさ。マア坊が僕のところへ来て、なやみがあるのよ、なんて言って泣いた事に就いて、「うち、気がもめる」というのは、すなわち、竹さんが僕に前から思召《おぼしめ》しがある証拠ではなかろうか、とばかな自惚《うぬぼ》れを起したいところだが、僕には、みじんもそんな気持が起らない。竹さんは、なりばかり大きくて、ちっともお色気の無い人だ。いつも仕事に追われて、他《ほか》の事など、考えているひまも無いようなたちの人なんだ。助手の組長という重責に緊張して、甲斐々々《かいがい》しく立働いているというだけの人なんだ。竹さんが、その前夜、マア坊を叱《しか》った。叱ったところが、マア坊はひどくしょげて、泣いたりしているという事を、他の助手から聞いて、それでは自分の叱り方が少し強すぎたのかしらと反省して、そうして心配になって来て、「うち、気がもめる」という事になった、というのがこの場合、頗《すこぶ》る野暮ったいけれども、しかし、最も健全な考え方だと思われる。それに違いないのだ。女なんて、どうせ、自分自身の立場の事ばかり考えているものさ。あたらしい男は、女に対して、ちっとも自惚れていないのだ。また、好かれるという事も無いんだ。さっぱりしたものだ。
「うち、気がもめる」と言って、竹さんは顔を赤くしたけれども、あれは、マア坊を叱った事に就いて気がもめる、という意味で、ふいと言ったその言葉が、案外の妙な響きを持っている事にはっと気づいて、少し自分でまごついて顔を赤くしたというだけの事で、なんという事もない。きわめて、つまらぬ事だ。そうして、あの日、マア坊が僕のところで泣いた事や、また、気がもめるの事にしても、或いは、ごはん一杯ぶんの贔屓《ひいき》の事にしろ、あの日の全部の変調子を解くために、是非とも考慮に入れて置かなければならぬ重大な事実が一つあるのだ。それは、鳴沢イト子の死である。鳴沢さんは、その前夜に死んだのだ。笑い上戸《じょうご》のマア坊が叱られたのもそれでわかる。助手たちは、鳴沢イト子と同様の、若い女だ。衝動も強かったのでは、あるまいか。女には、未だ、古くさい情緒みたいなものが残っている。淋《さび》しくて戸まどいして、そうして、ごはん一杯ぶんの慈善なんて、へんな情緒を発揮したのではあるまいか。とにかく、あの日の、みんなの変調子は、鳴沢イト子の死と強くむすびついているようだ。マア坊も、竹さんも、別段、僕に思召しがあるわけじゃないんだ。冗談じゃない。
どうだ、君、わかったかい。これでも、君は、竹さんを好きかい。まあいちど道場へ御出張になって、実物を拝見なさる事だ。竹さんよりは、マア坊のほうが、まだしも感覚の新しいところがあって、いいように僕には思われるのだが、君は、ひどくマア坊をきらいらしいね。考え直したらどうかね。マア坊には、やっぱり、ちょっといいところがあるんだぜ。おとといであったか、マア坊が、とても気だてのよいところを見せてくれて、僕は、にわかにまたマア坊を見直したというわけだが、きょうは一つその事の次第を御紹介しましょう。君も、きっと、マア坊を好きになるだろうと思う。
3
おととい、同室の西脇《にしわき》つくし殿が、いよいよ一家内の都合でこの道場を出る事になって、ちょうどその日がマア坊の公休日とかに当っているのだそうで、それで、つくしをE市まで送って行く約束をしたとか、その前の日あたりからマア坊は塾生たちに大いにからかわれて、お土産をたのむ、とほうぼうから強迫されて、よし心得た、と気軽に合点々々していたが、おとといの朝早く、久留米絣《くるめがすり》のモンペイをはいて、つくし殿のあとを追っていそいそ出かけ、
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