もあろう、マア坊は平気で奥の方へ行き、番茶の土瓶《どびん》とお茶碗《ちゃわん》を持って来た。僕たちは鏡の下のテーブルに向い合って席をとり、二人で生ぬるい番茶を飲んだ。ほっと深い溜息《ためいき》をついて、少し気持も楽になり、
「竹さんが結婚するんだって?」と軽い口調で言う事が出来た。
「そうよ。」マア坊もこのごろ、なぜだか淋《さび》しそうだ。寒そうに肩を小さくすぼめて、僕の顔をまっすぐに見ながら、「ご存じじゃ、なかったの?」
「知らなかった。」不意に眼が熱くなって、困って、うつむいてしまった。
「わかるわ。竹さんだって泣いてたわ。」
「何を言っていやがる。」マア坊の、しんみりした口調が、いやらしくて、いやらしくて、むかむか腹が立って来た。「いい加減な事を言っちゃ、いけない。」
「いい加減じゃないわ。」マア坊も涙ぐんでいる。「だから、あたしが言ったじゃないの。竹さんと仲よくしちゃいけないって。」
「仲よくなんか、しやしないよ。そんなに何でも心得ているような事を言うな。いやらしくって仕様がない。竹さんが結婚するのは、いい事だ。めでたいじゃないか。」
「だめよ。あたしは、知っているんですから。ごまかしたって、だめよ。」大きい眼から涙があふれて、まつげに溜《たま》って、それからぽろぽろ頬《ほお》を伝って流れはじめた。「知ってるのよ。知ってるのよ。」

     4

「よせよ。意味が無いじゃないか。」こんなところを、ひとに見られたら困ると思った。「なんの意味もありゃしないじゃないか。」繰返して言ったその僕の言葉も、あまり意味のあるもののようには思えなかった。
「ひばりは、全く、のんきな人ねえ。」と指先で頬の涙を拭きながら、マア坊は少し笑って言った。「いままで、場長さんと竹さんとの事をご存じじゃなかったなんて。」
「そんな下品な事は知らん。」急に、ひどく不愉快になって来た。みんなをぽかぽか殴ってやりたくなって来た。
「何が、下品なの? 結婚って、下品なものなの?」
「いや、そんな事はないが、」僕は口ごもって、「前から、何か、――」
「あらいやだ。そんな事は無いのよ。場長さんは、まじめなお方だわ。竹さんには何も言わないで、竹さんのお父さんのところにお願いにあがったのよ。竹さんのお父さんはいまこっちへ疎開《そかい》して来ているんだって。そうして竹さんのお父さんから、こないだ竹さんに話があって、竹さんは二晩も三晩も泣いてたわ。お嫁に行くのは、いやだって。」
「そんならいい。」僕は、せいせいした。
「どうしていいの? 泣いたからいいの? いやねえ、ひばりは。」と笑いながら言って、顔を横に傾けて、眼の光りが妙に活《い》き活《い》きして来て、右腕をすっと前に出し、卓の上の僕の手を固く握った。「竹さんはね、ひばりが恋しくって泣いたのよ、本当よ。」と言って、更に強く握りしめた。僕も、わけがわからず握りかえした。意味のない握手だった。僕はすぐに馬鹿らしくなって来て、手をひっこめて、
「お茶を、ついであげようか。」とてれかくしに言ってみた。
「いいえ。」とマア坊は眼を伏せて気弱そうに、しかも、きっぱりと、不思議な断り方で断った。
「それじゃ出ようか。」
「ええ。」
 小さく首肯《うなず》いて、顔を挙げた。その顔が、よかった。断然、よかった。完全の無表情で鼻の両側に疲れたような幽《かす》かな細い皺《しわ》が出来ていて、受け口が少しあいて、大きい眼は冷く深く澄んで、こころもち蒼《あお》ざめた顔には、すごい位の気品があった。この気品は、何もかも綺麗《きれい》にあきらめて捨てた人に特有のものである。マア坊も苦しみ抜いて、はじめて、すきとおるほど無慾な、あたらしい美しさを顕現できるような女になったのだ。これも、僕たちの仲間だ。新造の大きな船に身をゆだねて、無心に軽く天の潮路のままに進むのだ。幽かな「希望」の風が、頬を撫《な》でる。僕はその時、マア坊の顔の美しさに驚き「永遠の処女」という言葉を思い出したが、ふだん気障《きざ》だと思っていたその言葉も、その時には、ちっとも気障ではなく、実に新鮮な言葉のように感ぜられた。
「永遠の処女」なんてハイカラな言葉を野暮な僕が使うと、或いは君に笑われるかも知れないが、本当に僕は、あの時、あのマア坊の気高い顔で救われたのだ。
 竹さんの結婚も、遠い昔の事のように思われて、すっとからだが軽くなった。あきらめるとか何とか、そんな意志的なものではなくて、眼前の風景がみるみる遠のいて望遠鏡をさかさに覗《のぞ》いたみたいに小さくなってしまった感じであった。胸中に何のこだわるところもなくなった。これでもう僕も、完成せられたという爽快《そうかい》な満足感だけが残った。

     5

 晩秋の澄んだ青空をアメリカの飛行機が旋回している。僕たちは、
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