小梅橋のバスの停留場が近くなった頃《ころ》、僕は実に意外な事を聞いた。お母さんと、マア坊が、歩きながらよもやまの話の末に、
「場長さんが近く御結婚なさるとか、聞きましたけど?」
「はあ、あの、竹中さんと、もうすぐ。」
「竹中さんと? あの、助手さんの。」と、お母さんも驚いていたようであったが、僕はその百倍も驚いた。十万馬力の原子トラックに突き倒されたほどの衝動を受けた。
お母さんのほうはすぐ落ちついて、
「竹中さんは、いいお方ですものねえ。場長さんはさすがに、眼《め》がお高くていらっしゃる。」と言って、明るく笑い、それ以上突っ込んだ事も聞かず、おだやかに他《ほか》の話に移って行った。
僕は停留場で、どんな具合いにお母さんとお別れしたか、はっきり思い出せない。ただ眼のさきが、もやもやして、心臓がコトコトと響を立てて躍っているみたいな按配《あんばい》で、あれは、まったく、かなわない気持のものだ。
僕は白状する。僕は、竹さんを好きなのだ。はじめから、好きだったのだ。マア坊なんて、問題じゃなかったのだ。僕は、なんとかして竹さんを忘れようと思って、ことさらにマア坊のほうに近寄って行って、マア坊を好きになるように努めて来たのだが、どうしても駄目《だめ》なんだ。君に差し上げる手紙にも、僕はマア坊の美点ばかりを数え挙げて、竹さんの悪口をたくさん書いたが、あれは決して、君をだますつもりではなく、あんな具合いに書くことに依《よ》って僕は、僕の胸の思いを消したかったのだ。さすがの新しい男も、竹さんの事を思うと、どうも、からだが重くなって、翼が萎縮《いしゅく》し、それこそ豚のしっぽみたいな、つまらない男になりそうな気がするので、なんとかして、ここは、新しい男の面目にかけても、あっさりと気持を整理して、竹さんに対して全く無関心になりたくて、われとわが心を、はげまし、はげまし、竹さんの事をただ気がいいばかりの人だの、大鯛《おおだい》だの、買い物が下手くそだのと、さんざん悪口を言って来た僕の苦衷のほどを、君、すこしは察してくれ給《たま》え。そうして、君も僕に賛成して一緒に竹さんの悪口を言ってくれたら、あるいは僕も竹さんを本当にいやになって、身軽になれるかも知れぬとひそかに期待していたのだけれども、あてがはずれて、君が竹さんに夢中になってしまったので、いよいよ僕は窮したのさ。そこで、こんどは、僕は戦法をかえて、ことさらに竹さんをほめ挙げ、そうして、色気無しの親愛の情だの、新しい型の男女の交友だのといって、何とかして君を牽制《けんせい》しようとたくらんだ、というのが、これまでのいきさつの、あわれな実相だ。僕は色気が無いどころか、大ありだった。それこそ意馬心猿《いばしんえん》とでもいうべき、全くあさましい有様だったのだ。
3
君は竹さんを、凄《すご》いほどの美人だと言って、僕はやっきとなってそれを打ち消したが、それは僕だって、竹さんを凄いほどの美人だと思っていたのさ。この道場へ来た日に、僕は、ひとめ見てそう思った。
君、竹さんみたいなのが本当の美人なのだ。あの、洗面所の青い電球にぼんやり照らされ、夜明け直前の奇妙な気配の闇《やみ》の底に、ひっそりしゃがんで床板を拭《ふ》いていた時の竹さんは、おそろしいくらい美しかった。負け惜しみを言うわけではないが、あれは、僕だからこそ踏み堪《こた》える事が出来たのだ。他の人だったら、必ずあの場合、何か罪を犯したに違いない。女は魔物だなんて、かっぽれなんかよく言っているが、或いは女は意識せずに一時、人間性を失い、魔性のものになってしまっている事があるのかも知れない。
今こそ僕は告白する。僕は竹さんに、恋していたのだ。古いも新しいもありゃしない。
お母さんとわかれて、それから、膝頭《ひざがしら》が、がくがく震えるような気持で歩いて、たまらなく水が飲みたくなって、
「どこかで、少し休みたいな。」と言ったが、その声は、自分ながらおやと思ったほど嗄《しわが》れていて、誰か他の人が遠方で呟《つぶや》いている言葉のような感じがした。
「お疲れでしょう。もう少し行くと、あたしたちが時々寄って休ませてもらう家があるんですけど。」
大戦の前には三好野《みよしの》か何かしていたような形の家に、マア坊の案内ではいった。薄暗い広い土間には、こわれた自転車やら、炭俵のようなものがころがっていて、その一隅《いちぐう》に、粗末なテーブルがひとつ、椅子《いす》が二、三脚置かれている。そうして、そのテーブルの傍《そば》の壁には大きい鏡がかけられ、へんに気味悪く白く光っているのが印象深かった。この家は商売をよしても、やはり馴染《なじみ》の人たちには、お茶ぐらい出す様子で、道場の助手さんたちが外出した時には、油を売る場所になっているので
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