越後に向って極めて下手くそな芸術論みたいな事を述べて、それからひどくてれくさい思いをしたが、でも、越後の娘さんもまた僕たちのひそかな支持者らしいという事に気がついて、大いに自信を得て、さらにここに新しい男としての気焔《きえん》を挙げさせていただき、前説の補足を試みた次第である。
ついでながら、君の当道場に於ける評判も、はなはだよろしい。大いに気をよくして、いただきたい。君がちょっとこの道場を訪問しただけで、この道場の雰囲気《ふんいき》が、急に明るくなったといってもあながち過言ではないようだ。だいいち、花宵先生が十年も若返った。竹さんも、マア坊も、君によろしくと言っている。マア坊の曰《いわ》く、
「いい眼をしているわね。天才みたいね。まつげが長くて、まばたきするたんびに、パチンパチンという音が聞えた。」マア坊の言うことは大袈裟である。信じないほうがいい。竹さんの批評を御紹介しようか。そんなに固くならずに、平然とお聞き流しを願う。竹さんの曰く、
「ひばりとは、いい取組みや。」
それだけである。但《ただ》し、顔を赤くして言った。以上。
十月二十九日
竹さん
1
謹啓。きょうは、かなしいお知らせを致します。もっとも、かなしいといっても、恋しいという字にカナしいと振仮名をつけたみたいな、妙な気持のカナしさだ。竹さんがお嫁に行くのだ。どこへお嫁入りするかというと、場長さんだ。ここの健康道場場長、田島医学博士その人のところに、お輿入《こしい》れあそばすのだ。僕はきょうマア坊からその事を聞いた。
まあ、はじめから話そう。
けさは、お母さんが僕の着換えやら、何やらどっさり持って道場へお見えになった。お母さんは、月に二度ずつ僕の身のまわりのものを整理しにやって来るのだ。僕の顔をのぞき込んで、
「そろそろ、ホームシックかな?」とからかう。まいどの事だ。
「或《ある》いはね。」と僕も、わざと嘘《うそ》を言う。これも、まいどの事だ。
「きょうはお母さんを、小梅橋までお見送りして下さるんだそうですね。」
「誰《だれ》が?」
「さあ、どなたでしょうか。」
「僕? 外へ出てもいいの? お許しが出たの?」
お母さんは首肯《うなず》いて、
「でも、いやだったら、よござんす。」
「いやなもんか。僕はもう一日に十里だって歩けるんだ。」
「或いはね。」とお母さんは、僕の口真似《くちまね》をして言った。
四箇月振りで、寝巻を脱ぎ絣《かすり》の着物を着て、お母さんと一緒に玄関へ出ると、そこに場長が両手をうしろに組んで黙って立っていた。
「歩けますか、どうですか。」とお母さんがひとりごとのようにして言って笑ったら、
「男のお子さんは、満一歳から立って歩けます。」と場長さんは、にこりともせず、そんな下手な冗談を言って、「助手をひとりお供させます。」
事務所からマア坊が白い看護婦服の上に、椿《つばき》の花模様の赤い羽織をひっかけて、小走りに走って出て来て、お母さんに、どぎまぎしたような粗末なお辞儀をした。お供は、マア坊だ。
僕は新しい駒下駄《こまげた》をはいて、まっさきに外へ出た。駒下駄がへんに重くて、よろめいた。
「おっとと、あんよは上手。」と場長は、うしろで囃《はや》した。その口調に、愛情よりも、冷く強い意志を感じた。だらしないぞ! と叱《しか》られたような気がして、僕は、しょげた。振り向きもせず、すたすた五、六歩いそぎ足で歩いたら、また、うしろで場長が、
「はじめは、ゆっくり。はじめは、ゆっくり。」と、こんどは露骨に叱り飛ばすようなきびしい口調で言ったが、かえってその言葉のほうに、うれしい愛情が感ぜられた。
僕は、ゆっくり歩いた。お母さんとマア坊が、小声で何か囁《ささや》き合いながら、僕の後を追って来た。松林を通り抜けて、アスファルトの県道へ出たら、僕は軽い眩暈《めまい》を感じて、立ちどまった。
「大きいね。道が大きい。」アスファルト道が、やわらかい秋の日ざしを受けて鈍く光っているだけなのだが、僕には、それが一瞬、茫洋混沌《ぼうようこんとん》たる大河のように見えたのだ。
「無理かな?」お母さんは笑いながら、「どうかな? お見送りは、このつぎに、お願いするとしましょうか?」
2
「平気、平気。」ことさらに駒下駄の音をカタカタと高く響かせて歩いて、「もう馴《な》れた。」と言った途端に、トラックが、凄《すさま》じい勢いで僕を追い抜き、思わず僕は、わぁっ! と叫んだ。
「大きいね。トラックが大きいね。」とお母さんはすぐに僕の口真似をしてからかった。
「大きくはないけど、強いんだ。すごい馬力だ。たしかに十万馬力くらいだった。」
「さては、いまのは原子トラックかな?」お母さんも、けさは、はしゃいでいる。
ゆっくり歩いて、
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