その三好野ふうの家の前に立ってそれを見上げて、
「つまらなそうに飛んでいるねえ。」
「ええ。」とマア坊は微笑《ほほえ》む。
「しかし、飛行機というものの形には、新しい美しさがある。むだな飾りが一つも無いからだろうか。」
「そうねえ。」とマア坊は小声で言って、子供のように無心に空の飛行機を見送っている。
「むだな飾りの無い姿って、いいものなんだねえ。」
それは、飛行機だけでなく、マア坊の放心状態みたいな素直な姿態に就いてのひそかな感懐でもあったのだ。
二人だまって歩いて、僕は、途《みち》で逢《あ》う女のひとの顔をいちいち注意して見て、程度の差はあるが、いまの女のひとの顔には皆一様に、マア坊みたいな無慾な、透明の美しさがあらわれているように思われた。女が、女らしくなったのだ。しかしそれは、大戦以前の女にかえったというわけでは無い。戦争の苦悩を通過した新しい「女らしさ」だ。何といったらいいのか、鶯《うぐいす》の笹鳴《ささな》きみたいな美しさだ、とでもいったら君はわかってくれるであろうか。つまり、「かるみ」さ。
お昼すこし前に道場へ帰って来たが、往復半里以上も歩いたから、さすがに疲れて、寝巻に着換えるのもめんどうくさくて、羽織も脱がずにベッドに寝ころがって、そのまま、うとうと眠った。
「ひばり、ごはんや。」
眼を薄くあけて見ると、竹さんがお膳《ぜん》を持って笑って立っている。
ああ、場長夫人!
すぐに、はね起き、
「や、すみません。」と言って、思わず軽く頭を下げた。
「寝ぼけているな。寝ぼすけさん。」とひとりごとのように言って、お膳を枕元《まくらもと》に置き、「着物、着たまま寝ている人があるかいな。いま風邪ひいたら一大事や。早うお寝巻に着換えたらええ。」眉《まゆ》をひそめて不機嫌《ふきげん》そうに言いながら、ベッドの引出しから寝巻を取り出し、「世話の焼けるぼんぼんや。おいで、着換えさしてあげる。」
僕はベッドから降りて兵古帯《へこおび》をほどいた。いつものとおりの竹さんだ。場長と結婚するなんて、嘘《うそ》みたいに思われて来た。なあんだ、僕はいまうとうと眠って夢を見たのだ。お母さんが来たのも夢、マア坊があの三好野みたいな家で泣いたのも夢、と一瞬そんな気がして嬉《うれ》しかったが、しかし、そうではなかった。
「いい久留米絣《くるめがすり》やな。」竹さんは僕に着物を脱がせて、「ひばりには、とてもよく似合うわよ。マア坊は果報やなあ。帰りに一緒にオバさんとこでお茶を飲んだってな。」
やはり、夢ではなかった。
「竹さん、おめでとう。」と僕が言った。
竹さんは返辞をしなかった。黙って、うしろから寝巻をかけてくれて、それから、寝巻の袖口《そでぐち》から手を入れて、僕の腕の附《つ》け根のところを、ぎゅっとかなり強く抓《つね》った。僕は歯を食いしばって痛さを堪《こら》えた。
6
何事も無かったように寝巻に着換えて、僕は食事に取りかかり、竹さんは傍《そば》で僕の絣の着物を畳んでいる。お互いに一ことも、ものを言わなかった。しばらくして竹さんが、極めて小さい声で、
「かんにんね。」と囁《ささや》いた。
その一言に、竹さんの、いっさいの思いがこめられてあるような気がした。
「ひどいやつや。」と僕は、食事をしながら竹さんの言葉の訛《なま》りを真似《まね》てそっと呟《つぶや》いた。
そうしてこの一言にも、僕のいっさいの思いがこもっているような気がした。
竹さんはくすくす笑い出して、
「おおきに。」と言った。
和解が出来たのである。僕は竹さんの幸福を、しんから祈りたい気持になった。
「いつまでここにいるの?」
「今月一ぱい。」
「送別会でもしようか。」
「おお、いやらし!」
竹さんは大袈裟に身震いして、畳んだ着物をさっさと引出しにしまい込み、澄まして部屋から出て行った。どうして僕の周囲の人たちは、皆こんなにさっぱりした、いい人ばかりなのだろう。いま僕はこの手紙を、午後一時の講話を聞きながら書いているのだが、きょうの講話は、どなたが放送していらっしゃるか、わかりますか? およろこび下さい。大月花宵先生です。大月先生の当道場に於けるこのごろの人気はたいへんなものですよ。もう越後獅子《えちごじし》なんて失礼な綽名《あだな》では呼べなくなった。君が発見して、それから、二、三日は僕も我慢して誰にも言わずにいたが、とうとうマア坊にこっそり教えて、たちまち噂《うわさ》がぱっとひろがり、何せ「オルレアンの少女」の作者だという事で無条件に尊敬せられ、場長も巡回の時に、花宵先生に向って、いままで知らずに失礼しました、という意味のおわびを言ったくらいだ。
新館はもちろん、旧館の塾生《じゅくせい》たちからも、詩、和歌、俳句の添削依頼が殺到している
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