など、ちっとも気にしていないらしい落ちついた晴朗の態度にも感心したが、それよりも、あのいたわりの声の響きの気品に打たれた。御大家のお内儀が、庭番のじいやに、縁先から声をかけるみたいな、いかにも、のんびりしたゆとりのある調子なのである。非常に育ちのいいものを感じさせた。いつか越後も言っていたが、竹さんのお母さんは、よっぽど偉い人だったのに違いない。竹さんにまかせたら、この厚化粧の一件も、きっとあざやかに軽く解決せられるだろうと、僕はさらに大いに安心した。
4
そうして僕のその信頼は、僕の予期以上に素晴らしく報いられた。四時の自然の時間に、突如、廊下の拡声機から、
「そのまま、そのままの位置で、気楽にお聞きねがいます。」という事務員の声が聞えて、「かねて問題になって居《お》りました助手さんのお化粧に就いて、ただいま助手さんたちから自発的に今日限りこれを改める由《よし》を申し出てまいりました。」
わあっ、という歓声が隣りの「白鳥の間」から聞えて来た。臨時放送は、さらに続いて、
「きょうの夕食後に、それぞれお化粧を洗い落し、おそくとも今晩七時半の摩擦の時には、アメリカの人たちにへんな誤解をされない程度の簡素なよそおいで、塾生諸君にお目にかかるそうでございます。なお、次に、助手の牧田さんが、一言、塾生諸君におわび申し上げたいそうで、どうか牧田さんのこの純情を汲《く》んでやって下さい。」
牧田さんというのは、れいの孔雀だ。孔雀は、小さいせきばらいをして、
「私こと、」と言った。
お隣りの部屋から、どっと笑声が起った。僕たちの部屋でも、みんなにやにや笑っている。
「私こと、」こおろぎの鳴くような細い可憐《かれん》な声だ。「時節も場所がらも、わきまえませず、また、最年長者でもありますのに、ふつつかにて、残念な事をいたしました。深くおわび申し上げます。今後も、何とぞ、よろしくお導き下さいまし。」
「よし、よし。」という声が隣りの部屋から聞こえた。
「可哀《かわい》そうに。」とかっぽれは、しんみり言って僕のほうを横眼で見た。僕は、少しつらかった。
「最後に、」と事務の人が引きとり、「これは助手さんたち一同からのお願いでありますが、牧田さんの従来の綽名は、即刻改正していただきたい、との事でございます。きょうの臨時放送は、これだけです。」
「白鳥の間」から、すぐ回覧板が来た。
「一同満足せり。ひばりの労を多とす。孔雀は、私こと、と改名すべし。」
かっぽれは、その綽名の提案にすぐ反対を表明した。「私こと」という綽名をつけるのは、いかになんでも残酷すぎるというのである。
「むごいじゃねえか。あれでも一生懸命で言ったんだぜ。純情を汲み取ってくれって言われたじゃねえか。空飛ぶ鳥を見よ、というわけのものなんだ。一視同仁じゃねえか。人をのろわば穴二つというわけのものになるんだ。おれは絶対反対だ。孔雀がおしろいを落して黒い地肌《じはだ》を見せるってわけのものだから、これは、カラスとでも改めたらいいんだ。」
このほうが、かえって辛辣《しんらつ》で残酷だ。なんにもならない。
「孔雀が簡素になったんだから、孔雀の上の字を一つ省略して雀《すずめ》とでもするさ。」越後はそう言って、うふふと笑った。
雀も、すこし理に落ちて面白くないが、まあ長老の意見だし、回覧板に、「私こと」は酷に過ぎたり、「雀」など穏当ならん、と僕が書き込んで、かっぽれに持たせてやった。「白鳥の間」には、ほうぼうの部屋から綽名の提案が殺到していたそうであるが、結局、「私こと」に落ちつくかも知れない。どうも、あの時の孔雀の、小さいせきばらいを一つして、さて、「私こと」と言い出したところは、なんとも、よろしくて、忘れられないものだった。「私こと」以外の綽名は、色あせて感ぜられる。
5
七時の摩擦の時には、キントトと、マア坊と、カクランと、竹さんが、それぞれ金盥《かなだらい》をかかえて「桜の間」にやって来た。竹さんは、澄まして、まっすぐに僕のところに来た。キントトと、マア坊は、このたびのお化粧の注意人物として数え挙げられていたのであるが、その夜、僕たちの部屋へやって来た時の様子を見るに、髪の形などちょっと変わったようにも見えるが、しかしまだ何だかお化粧をしているようだ。
「マア坊は、まだ口紅をつけてるようじゃないか。」と僕は小声で竹さんに言ったら、竹さんは、シャッシャッと摩擦をはじめて、
「あれでも、ずいぶん、拭《ふ》いたり洗ったりして大騒ぎや。いちどに改めろ言うても、それぁ無理。若いのやさかい。」
「竹さんの働きは、大したものだね。」
「まえに、場長さんからも、幾度となく御注意があったんや。きょうの事務所からの放送を、場長さんもお聞きになって、いい御機嫌《ごきげん》やっ
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