にうまく恰好をつけては呉れません。どこまでやつていつても中途半端ではふり出されます。僕はビアヅレイでなくても一向かまはんですよ。懸命に畫をかいて、高い價で賣つて、遊ぶ。それで結構なんです。」
言ひ終へたところは山猫の檻のまへであつた。山猫は青い眼を光らせ、脊を丸くして私たちをじつと見つめてゐた。佐竹はしづかに腕を伸ばして吸ひかけの煙草の火を山猫の鼻にぴたつとおしつけた。さうして佐竹の姿は巖のやうに自然であつた。
三 登龍門
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ここを過ぎて、一つ二錢の榮螺かな。
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「なんだか、――とんでもない雜誌ださうですね。」
「いいえ。ふつうのパンフレツトです。」
「すぐそんなことを言ふからな。君のことは實にしばしば話に聞いて、よく知つてゐます。ジツドとヴアレリイとをやりこめる雜誌なんださうですね。」
「あなたは、笑ひに來たのですか。」
私がちよつと階下へ行つてゐるまに、もう馬場と太宰が言ひ合ひをはじめた樣子で、お茶道具をしたから持つて來て部屋へはひつたら、馬場は部屋の隅の机に頬杖ついて居汚く坐り、また太宰といふ男は馬場と對角線をなして向きあつたもう一方の隅の壁に背をもたせ細長い兩の毛臑を前へ投げだして坐り、ふたりながら眠たさうに半分閉ぢた眼と大儀さうなのろのろした口調でもつて、けれども腹綿は恚忿と殺意のために煮えくりかへつてゐるらしく眼がしらや言葉のはしはしが兒蛇の舌のやうにちろちろ燃えあがつてゐるのが私にさへたやすくそれと察知できるくらゐに、なかなか險しくわたり合つてゐたのである。佐竹は太宰のすぐ傍にながながと寢そべり、いかにも、つまらなさうに眼玉をきよろきよろうごかしながら煙草をふかしてゐた。はじめからいけなかつた。その朝、私がまだ寢てゐるうちに馬場が私の下宿の部屋を襲つた。けふは學生服をきちんと着て、そのうへに、ぶくぶくした黄色いレンコオトを羽織つてゐた。雨にびつしより濡れたそのレンコオトを脱ぎもせずに部屋をぐるぐるいそがしげに※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]つて歩いた。歩きながら、ひとりごとのやうにして呟くのである。
「君、君。起きたまへ。僕はひどい神經衰弱らしいぞ。こんなに雨が降つては、僕はきつと狂つてしまふ。海賊の空想だけでも痩せてしまふ。君、起きたまへ。ついせんだつて僕は太宰治といふ男に逢つたよ。僕の學校の先輩から小説の素晴らしく巧い男だといつて紹介されたのだが、――何も宿命だ。仲間にいれてやることにした。君、太宰つてのは、おそろしくいやな奴だぞ。さうだ。まさしく、いや、な奴だ。嫌惡の情だ。僕はあんなふうの男とは肉體的に相容れないものがあるやうだ。頭は丸坊主。しかも君、意味深げな丸坊主だ。惡い趣味だよ。さうだ、さうだ。あいつはからだのぐるりを趣味でかざつてゐるのだ。小説家つてのは、皆あんな工合ひのものかねえ。思索や學究や情熱なぞをどこに置き忘れて來たのか。まるつきりの、根つからの戲作者だ。蒼黒くでらでらした大きい油顏で、鼻が、――君レニエの小説で僕はあんな鼻を讀んだことがあるぞ。危險きはまる鼻。危機一髮、團子鼻に墮さうとするのを鼻のわきの深い皺がそれを助けた。まつたくねえ。レニエはうまいことを言ふ。眉毛は太く短くまつ黒で、おどおどした兩の小さい眼を被ひかくすほどもじやもじや繁茂してゐやがる。額はあくまでもせまく皺が横に二筋はつきりきざまれてゐて、もう、なつちやゐない。首がふとく、襟脚はいやに鈍重な感じで、顎の下に赤い吹出物の跡を三つも僕は見つけた。僕の目算では、身丈は五尺七寸、體重は十五貫、足袋は十一文、年齡は斷じて三十まへだ。おう、だいじなことを言ひ忘れた。ひどい猫脊で、とんとせむし、――君、ちよつと眼をつぶつてそんなふうの男を想像してごらん。ところが、これは嘘なんだ。まるつきり嘘なんだ。おほやま師。裝つてゐるのだ。それにちがひないんだ。なにからなにまで見せかけなのだ。僕の睨んだ眼に狂ひはない。ところどころに生え伸びたまだらな無精鬚。いや、あいつに無精なんてあり得ない。どんな場合でもあり得ない。わざとつとめて生やした鬚だ。ああ、僕はいつたい誰のことを言つてゐるのだ! ごらん下さい、私はいまかうしてゐます、ああしてゐますと、いちいち説明をつけなければ指一本うごかせず咳ばらひ一つできない。いやなこつた! あいつの素顏は、眼も口も眉毛もないのつぺらぼうさ。眉毛を描いて眼鼻をくつつけ、さうして知らんふりをしてゐやがる。しかも君、それをあいつは藝にしてゐる。ちえつ! 僕はあいつを最初瞥見したとき、こんにやくの舌で顏をぺろつと舐められたやうな氣がしたよ。思へば、たいへんな仲間ばかり集つて來たものさ。佐竹、太宰、佐野次郎、馬場、ははん、この四人が、ただ默つて立ち並んだだけでも歴史的だ。さうだ! 僕はやるぞ。なにも宿命だ。いやな仲間もまた一興ぢやないか。僕はいのちをことし一年限りとして Le Pirate に僕の全部の運命を賭ける。乞食になるか、バイロンになるか。神われに五ペンスを與ふ。佐竹の陰謀なんて糞くらへだ!」ふいと聲を落して、「君、起きろよ。雨戸をあけてやらう。もうすぐみんなここへ來るよ。けふこの部屋で海賊の打ち合せをしようと思つてね。」
私も馬場の興奮に釣られてうろうろしはじめ、蒲團を蹴つて起きあがり、馬場とふたりで腐りかけた雨戸をがたぴしこじあけた。本郷のまちの屋根屋根は雨でけむつてゐた。
ひるごろ、佐竹が來た。レンコオトも帽子もなく、天鵞絨のズボンに水色の毛絲のジヤケツを着けたきりで、顏は雨に濡れて、月のやうに青く光つた不思議な頬の色であつた。夜光蟲は私たちに一言の挨拶もせず、溶けて崩れるやうにへたへたと部屋の隅に寢そべつた。
「かんにんして呉れよ。僕は疲れてゐるんだ。」
すぐつづいて太宰が障子をあけてのつそりあらはれた。ひとめ見て、私はあわてふためいて眼をそらした。これはいけないと思つた。彼の風貌は、馬場の形容を基にして私が描いて置いた好惡ふたつの影像のうち、わるいはうの影像と一分一厘の間隙もなくぴつたり重なり合つた。さうして尚さらいけないことには、そのときの太宰の服裝がそつくり、馬場のかねがね最もいみきらつてゐるたちのものだつたではないか。派手な大島絣の袷に總絞りの兵古帶、荒い格子縞のハンチング、淺黄の羽二重の長襦袢の裾がちらちらこぼれて見えて、その裾をちよつとつまみあげて坐つたものであるが、窓のそとの景色を、形だけ眺めたふりをして、
「ちまたに雨が降る。」と女のやうな細い甲高い聲で言つて、私たちのはうを振りむき赤濁りに濁つた眼を絲のやうに細くし顏ぢゆうをくしやくしやにして笑つてみせた。私は部屋から飛び出してお茶を取りに階下へ降りた。お茶道具と鐵瓶とを持つて部屋へかへつて來たら、もうすでに馬場と太宰が爭つてゐたのである。
太宰は坊主頭のうしろへ兩手を組んで、「言葉はどうでもよいのです。いつたいやる氣なのかね?」
「何をです。」
「雜誌をさ。やるなら一緒にやつてもいい。」
「あなたは一體、何しにここへ來たのだらう。」
「さあ、――風に吹かれて。」
「言つて置くけれども、御託宣と、警句と、冗談と、それから、そのにやにや笑ひだけはよしにしませう。」
「それぢや、君に聞くが、君はなんだつて僕を呼んだのだ。」
「おめえはいつでも呼べば必ず來るのかね?」
「まあ、さうだ。さうしなければいけないと自分に言ひ聞かせてあるのです。」
「人間のなりはひの義務。それが第一。さうですね?」
「ご勝手に。」
「おや、あなたは妙な言葉を體得してゐますね。ふてくされ。ああ、ごめんだ。あなたと仲間になるなんて! とかう言ひ切るとあなたのはうぢや、すぐもうこつちをポンチにしてゐるのだからな。かなはんよ。」
「それは、君だつて僕だつてはじめからポンチなのだ。ポンチにするのでもなければ、ポンチになるのでもない。」
「私は在る。おほきいふぐりをぶらさげて、さあ、この一物をどうして呉れる。そんな感じだ。困りましたね。」
「言ひすぎかも知れないけれど、君の言葉はひどくしどろもどろの感じです。どうかしたのですか? ――なんだか、君たちは藝術家の傳記だけを知つてゐて、藝術家の仕事をまるつきり知つてゐないやうな氣がします。」
「それは非難ですか? それともあなたの研究發表ですか? 答案だらうか。僕に採點しろといふのですか?」
「――中傷さ。」
「それぢや言ふが、そのしどろもどろは僕の特質だ。たぐひ稀な特質だ。」
「しどろもどろの看板。」
「懷疑説の破綻と來るね。ああ、よして呉れ。僕は掛合ひ萬歳は好きでない。」
「君は自分の手鹽にかけた作品を市場にさらしたあとの突き刺されるやうな悲しみを知らないやうだ。お稻荷さまを拜んでしまつたあとの空虚を知らない。君たちは、たつたいま、一《いち》の鳥居をくぐつただけだ。」
「ちえつ! また御託宣か。――僕はあなたの小説を讀んだことはないが、リリシズムと、ウヰツトと、ユウモアと、エピグラムと、ポオズと、そんなものを除き去つたら、跡になんにも殘らぬやうな駄洒落小説をお書きになつてゐるやうな氣がするのです。僕はあなたに精神を感ぜずに世間を感ずる。藝術家の氣品を感ぜずに、人間の胃腑を感ずる。」
「わかつてゐます。けれども、僕は生きて行かなくちやいけないのです。たのみます、といつて頭をさげる、それが藝術家の作品のやうな氣さへしてゐるのだ。僕はいま世渡りといふことについて考へてゐる。僕は趣味で小説を書いてゐるのではない。結構な身分でゐて、道樂で書くくらゐなら、僕ははじめから何も書きはせん。とりかかれば、一通りはうまくできるのが判つてゐる。けれども、とりかかるまへに、これは何故に今さららしくとりかかる値打ちがあるのか、それを四方八方から眺めて、まあ、まあ、ことごとしくとりかかるにも及ぶまいといふことに落ちついて、結局、何もしない。」
「それほどの心情をお持ちになりながら、なんだつて、僕たちと一緒に雜誌をやらうなどと言ふのだらう。」
「こんどは僕を研究する氣ですか? 僕は怒りたくなつたからです。なんでもいい、叫びが欲しくなつたのだ。」
「あ、それは判る。つまり楯を持つて恰好をつけたいのですね。けれども、――いや、そむいてみることさへできない。」
「君を好きだ。僕なんかも、まだ自分の楯を持つてゐない。みんな他人の借り物だ。どんなにぼろぼろでも自分專用の楯があつたら。」
「あります。」私は思はず口をはさんだ。「イミテエシヨン!」
「さうだ。佐野次郎にしちや大出來だ。一世一代だぞ、これあ。太宰さん。附け鬚模樣の銀鍍金の楯があなたによく似合ふさうですよ。いや、太宰さんは、もう平氣でその楯を持つて構へてゐなさる。僕たちだけがまるはだかだ。」
「へんなことを言ふやうですけれども、君はまるはだかの野苺と着飾つた市場の苺とどちらに誇りを感じます。登龍門といふものは、ひとを市場へ一直線に送りこむ外面如菩薩の地獄の門だ。けれども僕は着飾つた苺の悲しみを知つてゐる。さうしてこのごろ、それを尊く思ひはじめた。僕は逃げない。連れて行くところまでは行つてみる。」口を曲げて苦しさうに笑つた。「そのうちに君、眼がさめて見ると、――」
「おつとそれあ言ふな。」馬場は右手を鼻の先で力なく振つて、太宰の言葉をさへぎつた。「眼がさめたら、僕たちは生きて居れない。おい、佐野次郎。よさうよ。面白くねえや。君にはわるいけれども、僕は、やめる。僕はひとの食ひものになりたくないのだ。太宰に食はせる油揚げはよそを搜して見つけたらいい。太宰さん。海賊クラブは一日きりで解散だ。そのかはり、――」立ちあがつて、つかつか太宰のはうへ歩み寄り、「ばけもの!」
太宰は右の頬を毆られた。平手で音高く毆られた。太宰は瞬間まつたくの小兒のやうな泣きべそを掻いたが、すぐ、どす黒い唇を引きしめて、傲然と頭をもたげた。私はふつと、太宰の顏を好きに思つた。佐竹は眼をかるくつぶつて眠つたふりをしてゐた。
雨は晩になつてもやまな
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