かつた。私は馬場とふたり、本郷の薄暗いおでんやで酒を呑んだ。はじめは、ふたりながら死んだやうに默つて呑んでゐたのであるが、二時間くらゐたつてから、馬場はそろそろしやべりはじめた。
「佐竹が太宰を抱き込んだにちがひないのさ。下宿のまへまでふたり一緒に來たのだ。それくらゐのことは、やる男だ。君、僕は知つてゐるよ。佐竹は君に何かこつそり相談したことがありはしないか。」
「あります。」私は馬場に酌をした。なんとかしていたはりたかつた。
「佐竹は僕から君をとらうとしたのだ。別に理由はない。あいつは、へんな復讐心を持つてゐる。僕よりえらい。いや、僕にはよく判らない。――いや、ひよつとしたら、なんでもない俗な男なのかも知れん。さうだ、あんなのが世間から人並の男と言はれるのだらう。だが、もういい。雜誌をよしてさばさばしたよ。今夜は僕、枕を高くしてのうのうと寢るぞ! それに、君、僕はちかく勘當されるかも知れないのだよ。一朝めざむれば、わが身はよるべなき乞食であつた。雜誌なんて、はじめから、やる氣はなかつたのさ。君を好きだから、君を離したくなかつたから、海賊なんぞ持ちだしたまでのことだ。君が海賊の空想に胸をふくらめて、樣樣のプランを言ひだすときの潤んだ眼だけが、僕の生き甲斐だつた。この眼を見るために僕はけふまで生きて來たのだと思つた。僕は、ほんたうの愛情といふものを君に教はつて、はじめて知つたやうな氣がしてゐる。君は透明だ、純粹だ。おまけに、――美少年だ! 僕は君の瞳のなかにフレキシビリテイの極致を見たやうな氣がする。さうだ。知性の井戸の底を覗いたのは、僕でもない太宰でもない佐竹でもない、君だ! 意外にも君であつた。――ちえつ! 僕はなぜかうべらべらしやべつてしまうのだらう。輕薄。狂躁。ほんたうの愛情といふものは死ぬまで默つてゐるものだ。菊のやつが僕にさう教へたことがある。君、ビツグ・ニユウス。どうしやうもない。菊が君に惚れてゐるぞ。佐野次郎さんには、死んでも言ふものか。死ぬほど好きなひとだもの。そんな逆説めいたことを口走つて、サイダアを一瓶、頭から僕にぶつかけて、きやつきやつと氣ちがひみたいに笑つた。ところで君は、誰をいちばん好きなんだ。太宰を好きか? え。佐竹か? まさかねえ。さうだらう? 僕、――」
「僕は、」私はぶちまけてしまはうと思つた。「誰もみんなきらひです。菊ちやんだけを好きなんだ。川のむかふにゐた女よりさきに菊ちやんを見て知つてゐたやうな氣もするのです。」
「まあ、いい。」馬場はさう呟いて微笑んでみせたが、いきなり左手で顏をひたと覆つて、嗚咽をはじめた。芝居の臺詞みたいな一種リズミカルな口調でもつて、「君、僕は泣いてゐるのぢやないよ。うそ泣きだ。そら涙だ。ちくしやう! みんなさう言つて笑ふがいい。僕は生れたときから死ぬるきはまで狂言をつづけ了せる。僕は幽靈だ。ああ、僕を忘れないで呉れ! 僕には才分があるのだ。荒城の月を作曲したのは、誰だ。瀧廉太郎を僕ぢやないといふ奴がある。それほどまでにひとを疑はなくちや、いけないのか。嘘なら嘘でいい。――いや、うそぢやない。正しいことは正しく言ひ張らなければいけない。絶對に嘘ぢやない。」
 私はひとりでふらふら外へ出た。雨が降つてゐた。ちまたに雨が降る。ああ、これは先刻、太宰が呟いた言葉ぢやないか。さうだ、私は疲れてゐるんだ。かんにんしてお呉れ。あ! 佐竹の口眞似をした。ちえつ! あああ、舌打ちの音まで馬場に似て來たやうだ。そのうちに、私は荒涼たる疑念にとらはれはじめたのである。私はいつたい誰だらう、と考へて、慄然とした。私は私の影を盜まれた。何が、フレキシビリテイの極致だ! 私は、まつすぐに走りだした。齒醫者。小鳥屋。甘栗屋。ベエカリイ。花屋。街路樹。古本屋。洋館。走りながら私は自分が何やらぶつぶつ低く呟いてゐるのに氣づいた。――走れ、電車。走れ、佐野次郎。走れ、電車。走れ、佐野次郎。出鱈目な調子をつけて繰り返し繰り返し歌つてゐたのだ。あ、これが私の創作だ。私の創つた唯一の詩だ。なんといふだらしなさ! 頭がわるいから駄目なんだ。だらしがないから駄目なんだ。ライト。爆音。星。葉。信號。風。あつ!

       四

「佐竹。ゆうべ佐野次郎が電車にはね飛ばされて死んだのを知つてゐるか。」
「知つてゐる。けさ、ラジオのニユウスで聞いた。」
「あいつ、うまく災難にかかりやがつた。僕なんか、首でも吊らなければおさまりがつきさうもないのに。」
「さうして、君がいちばん長生きをするだらう。いや、僕の豫言はあたるよ。君、――」
「なんだい。」
「ここに二百圓だけある。ペリカンの畫が賣れたのだ。佐野次郎氏と遊びたくてせつせとこれだけこしらへたのだが。」
「僕におくれ。」
「いいとも。」
「菊ちやん。佐野次郎は死んだよ。ああ、ゐなくなつたのだ。どこを搜してもゐないよ。泣くな。」
「はい。」
「百圓あげよう。これで綺麗な着物と帶とを買へば、きつと佐野次郎のことを忘れる。水は器《うつは》にしたがふものだ。おい、おい、佐竹。今晩だけ、ふたりで仲よく遊ばう。僕がいいところへ案内してやる。日本でいちばん好いところだ。――かうしてお互ひに生きてゐるといふのは、なんだか、なつかしいことでもあるな。」
「人は誰でもみんな死ぬさ。」



底本:「太宰治全集2」筑摩書房
   1998(平成10)年5月25日初版第1刷発行
初出:「文藝春秋」
   1935(昭和10)年10月
入力:土屋隆
校正:増山一光
2006年12月30日作成
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