オゼフ・シゲテイが拂つた。シゲテイは、酒を呑んでも行儀がよかつた。黒の蝶ネクタイを固くきちんと結んだままで、女給たちにはつひに一指も觸れなかつた。理智で切りきざんだ工合ひの藝でなければ面白くないのです。文學のはうではアンドレ・ジツドとトオマス・マンが好きです、と言つてから淋しさうに右手の親指の爪を噛んだ。ジツドをチツトと發音してゐた。夜のまつたく明けはなれたころ、二人は、帝國ホテルの前庭の蓮の池のほとりでお互ひに顏をそむけながら力の拔けた握手を交してそそくさと別れ、その日のうちにシゲテイは横濱からエムプレス・オブ・カナダ號に乘船してアメリカへむけて旅立ち、その翌る日、東京朝日新聞にれいのルフラン附きの文章が掲載されたといふわけであつた。けれども私は、彼もさすがにてれくささうにして眼を激しくしばたたかせながら、さうして、おしまひにはほとんど不機嫌になつてしまつて語つて聞かせたこんなふうの手柄話を、あんまり信じる氣になれないのである。彼が異國人と夜のまつたく明けはなれるまで談じ合ふほど語學ができるかどうか、さういふことからして怪しいもんだと私は思つてゐる。疑ひだすと果しがないけれども、いつ
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