好きなんだ。川のむかふにゐた女よりさきに菊ちやんを見て知つてゐたやうな氣もするのです。」
「まあ、いい。」馬場はさう呟いて微笑んでみせたが、いきなり左手で顏をひたと覆つて、嗚咽をはじめた。芝居の臺詞みたいな一種リズミカルな口調でもつて、「君、僕は泣いてゐるのぢやないよ。うそ泣きだ。そら涙だ。ちくしやう! みんなさう言つて笑ふがいい。僕は生れたときから死ぬるきはまで狂言をつづけ了せる。僕は幽靈だ。ああ、僕を忘れないで呉れ! 僕には才分があるのだ。荒城の月を作曲したのは、誰だ。瀧廉太郎を僕ぢやないといふ奴がある。それほどまでにひとを疑はなくちや、いけないのか。嘘なら嘘でいい。――いや、うそぢやない。正しいことは正しく言ひ張らなければいけない。絶對に嘘ぢやない。」
私はひとりでふらふら外へ出た。雨が降つてゐた。ちまたに雨が降る。ああ、これは先刻、太宰が呟いた言葉ぢやないか。さうだ、私は疲れてゐるんだ。かんにんしてお呉れ。あ! 佐竹の口眞似をした。ちえつ! あああ、舌打ちの音まで馬場に似て來たやうだ。そのうちに、私は荒涼たる疑念にとらはれはじめたのである。私はいつたい誰だらう、と考へて、慄然
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