戀の相手といふのは逢ふのに少しばかり金のかかるたちの女であつたから、私は金のないときには、その甘酒屋の縁臺に腰をおろし、一杯の甘酒をゆるゆると啜り乍らその菊といふ女の子を私の戀の相手の代理として眺めて我慢してゐたものであつた。ことしの早春に、私はこの甘酒屋で異樣な男を見た。その日は土曜日で、朝からよく晴れてゐた。私はフランス敍情詩の講義を聞きをへて、眞晝頃、梅は咲いたか櫻はまだかいな。たつたいま教つたばかりのフランスの敍情詩とは打つて變つたかかる無學な文句に、勝手なふしをつけて繰りかへし繰りかへし口ずさみながら、れいの甘酒屋を訪れたのである。そのときすでに、ひとりの先客があつた。私は、おどろいた。先客の恰好が、どうもなんだか奇態に見えたからである。ずゐぶん痩せ細つてゐるやうであつたけれども身丈は尋常であつたし、着てゐる背廣服も黒サアジのふつうのものであつたが、そのうへに羽織つてゐる外套がだいいち怪しかつた。なんといふ型のものであるか私には判らぬけれども、ひとめ見た印象で言へば、シルレルの外套である。天鵞絨と紐釦《ぼたん》がむやみに多く、色は見事な銀鼠であつて、話にならんほどにだぶだぶし
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