私が近づいていつて、やあ、と馬場に聲をかけたら、菊ちやんが、あ、と小さく叫んで飛びあがり、ふりむいて私に白い齒を見せて挨拶したが、みるみる豐かな頬をあかくした。私も少しどぎまぎして、わるかつたかな? と思はず口を滑らせたら、菊ちやんは一瞬はつと表情をかへて妙にまじめな眼つきで私の顏を見つめたかと思ふと、くるつと私に背をむけお盆で顏をかくすやうにして店の奧へ駈けこんでいつたものだ。なんのことはない、あやつり人形の所作でも見てゐるやうな心地がした。私はいぶかしく思ひながらその後姿をそれとなく見送り縁臺に腰をおろすと、馬場はにやにやうす笑ひして言ひだした。
「信じ切る。そんな姿はやつぱり好いな。あいつがねえ。」白馬驕不行の碾茶の茶碗は流石にてれくさい故をもつてか、とうのむかしに廢止されて、いまは普通のお客と同じに店の青磁の茶碗。番茶を一口すすつて、「僕のこの不精髭を見て、幾日くらゐたてばそんなに伸びるの? と聞くから、二日くらゐでこんなになつてしまふのだよ。ほら、じつとして見てゐなさい。鬚がそよそよと伸びるのが肉眼でも判るほどだから、と眞顏で教へたら、だまつてしやがんで僕の顎を皿のやうなおほ
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