て論じてゐるのをつひぞ聞いたことがない。ヴアイオリンを手にしたのを見たことがない。作曲する? おたまじやくしさへ讀めるかどうか。馬場の家では、あいつに泣かされてゐるのですよ。いつたい音樂學校にはひつてゐるのかどうか、それさへはつきりしてゐないのです。むかしはねえ、あれで小説家にならうと思つて勉強したこともあるんですよ。それがあんまり本を讀みすぎた結果、なんにも書けなくなつたのださうです。ばかばかしい。このごろはまた、自意識過剩とかいふ言葉のひとつ覺えで、恥かしげもなくはうばうへそれを言ひふらして歩いてゐるやうです。僕はむづかしい言葉ぢや言へないけれども、自意識過剩といふのは、たとへば、道の兩側に何百人かの女學生が長い列をつくつてならんでゐて、そこへ自分が偶然にさしかかり、そのあひだをひとりで、のこのこ通つて行くときの一擧手一投足、ことごとくぎこちなく視線のやりば首の位置すべてに困じ果てきりきり舞ひをはじめるやうな、そんな工合ひの氣持ちのことだと思ふのですが、もしそれだつたら、自意識過剩といふものは、實にもう、七轉八倒の苦しみであつて、馬場みたいにあんな出鱈目な饒舌を弄することは勿論できない筈だし、――だいいち雜誌を出すなんて浮いた氣持ちになれるのがをかしいぢやないですか! 海賊。なにが海賊だ。好い氣なもんだ。あなた、あんまり馬場を信じ過ぎると、あとでたいへんなことになりますよ。それは僕がはつきり豫言して置いていい。僕の豫言は當りますよ。」
「でも。」
「でも?」
「僕は馬場さんを信じてゐます。」
「はあ、さうですか。」私の精一ぱいの言葉を、なんの表情もなく聞き流して、「今度の雜誌のことだつて、僕は徹頭徹尾、信じてゐません。僕に五十圓出せと言ふのですけれども、ばからしい。ただわやわや騷いでゐたいのですよ。一點の誠實もありません。あなたはまだごぞんじないかも知れないが明後日、馬場と僕と、それから馬場が音樂學校の或る先輩に紹介されて識つた太宰治とかいふわかい作家と、三人であなたの下宿をたづねることになつてゐるのですよ。そこで雜誌の最後的プランをきめてしまふのだとか言つてゐましたが、――どうでせう。僕たちはその場合、できるだけつまらなさうな顏をしてやらうぢやありませんか。さうして相談に水をさしてやらうぢやありませんか。どんな素晴らしい雜誌を出してみたところで、世の中は僕たちにうまく恰好をつけては呉れません。どこまでやつていつても中途半端ではふり出されます。僕はビアヅレイでなくても一向かまはんですよ。懸命に畫をかいて、高い價で賣つて、遊ぶ。それで結構なんです。」
 言ひ終へたところは山猫の檻のまへであつた。山猫は青い眼を光らせ、脊を丸くして私たちをじつと見つめてゐた。佐竹はしづかに腕を伸ばして吸ひかけの煙草の火を山猫の鼻にぴたつとおしつけた。さうして佐竹の姿は巖のやうに自然であつた。

     三 登龍門

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ここを過ぎて、一つ二錢の榮螺かな。
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「なんだか、――とんでもない雜誌ださうですね。」
「いいえ。ふつうのパンフレツトです。」
「すぐそんなことを言ふからな。君のことは實にしばしば話に聞いて、よく知つてゐます。ジツドとヴアレリイとをやりこめる雜誌なんださうですね。」
「あなたは、笑ひに來たのですか。」
 私がちよつと階下へ行つてゐるまに、もう馬場と太宰が言ひ合ひをはじめた樣子で、お茶道具をしたから持つて來て部屋へはひつたら、馬場は部屋の隅の机に頬杖ついて居汚く坐り、また太宰といふ男は馬場と對角線をなして向きあつたもう一方の隅の壁に背をもたせ細長い兩の毛臑を前へ投げだして坐り、ふたりながら眠たさうに半分閉ぢた眼と大儀さうなのろのろした口調でもつて、けれども腹綿は恚忿と殺意のために煮えくりかへつてゐるらしく眼がしらや言葉のはしはしが兒蛇の舌のやうにちろちろ燃えあがつてゐるのが私にさへたやすくそれと察知できるくらゐに、なかなか險しくわたり合つてゐたのである。佐竹は太宰のすぐ傍にながながと寢そべり、いかにも、つまらなさうに眼玉をきよろきよろうごかしながら煙草をふかしてゐた。はじめからいけなかつた。その朝、私がまだ寢てゐるうちに馬場が私の下宿の部屋を襲つた。けふは學生服をきちんと着て、そのうへに、ぶくぶくした黄色いレンコオトを羽織つてゐた。雨にびつしより濡れたそのレンコオトを脱ぎもせずに部屋をぐるぐるいそがしげに※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]つて歩いた。歩きながら、ひとりごとのやうにして呟くのである。
「君、君。起きたまへ。僕はひどい神經衰弱らしいぞ。こんなに雨が降つては、僕はきつと狂つてしまふ。海賊の空想だけでも痩せてしまふ。君、起きたまへ。ついせんだつて僕は太宰治といふ男に逢
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