どつちも或る第三者を計算にいれてものを言つてゐるのだからな。さうだらう?」何か私の知らない仔細があるらしかつた。
 佐竹は陶器のやうな青白い齒を出して、にやつと笑つた。「もう僕への用事はすんだのかね?」
「さうだ。」馬場はことさらに傍見をしながら、さもさもわざとらしい小さなあくびをした。
「ぢやあ、僕は失敬するよ。」佐竹は小聲でさう呟き、金側の腕時計を餘程ながいこと見つめて何か思案してゐるふうであつたが、「日比谷へ新響を聞きに行くんだ。近衞もこのごろは商賣上手になつたよ。僕の座席のとなりにいつも異人の令孃が坐るのでねえ。このごろはそれがたのしみさ。」言ひ終へたら、鼠のやうな身輕さでちよこちよこ走り去つた。
「ちえつ! 菊ちやん、ビイルをおくれ。おめえの色男がかへつちやつた。佐野次郎、呑まないか。僕はつまらん奴を仲間にいれたなあ。あいつは、いそぎんちやくだよ。あんな奴と喧嘩したら、倒立ちしたつてこつちが負けだ。ちつとも手むかひせずに、こつちの毆つた手へべつとりくつついて來る。」急に眞劍さうに聲をひそめて、「あいつ、菊の手を平氣で握りしめたんだよ。あんなたちの男が、ひとの女房を易々と手にいれたりなどするんだねえ。インポテンスぢやないかと思ふんだけれど。なに、名ばかりの親戚で僕とは血のつながりなんか絶對にない。――僕は菊のまへであいつと議論したくねえんだ。はり合ふなんて、いやなこつた。――君、佐竹の自尊心の高さを考へると、僕はいつでもぞつとするよ。」ビイルのコツプを握つたまま、深い溜息をもらした。「けれども、あいつの畫だけは正當に認めなければいけない。」
 私はぼんやりしてゐた。だんだん薄暗くなつて色々の灯でいろどられてゆく上野廣小路の雜沓の樣子を見おろしてゐたのである。さうして馬場のひとりごととは千里萬里もかけはなれた、つまらぬ感傷にとりつかれてゐた。「東京だなあ。」といふたつたそれだけの言葉の感傷に。
 ところが、それから五六日して、上野動物園で貘の夫婦をあらたに購入したといふ話を新聞で讀み、ふとその貘を見たくなつて學校の授業がすんでから、動物園に出かけていつたのであるが、そのとき、水禽の大鐵傘ちかくのベンチに腰かけてスケツチブツクへ何やらかいてゐる佐竹を見てしまつたのである。しかたなく傍へ寄つていつて、輕く肩をたたいた。
「ああ。」と輕くうめいて、ゆつくり私のはうへ頸をねぢむけた。「あなたですか。びつくりしましたよ。ここへお坐りなさい。いま、この仕事を大急ぎで片づけてしまひますから、それまで鳥渡、待つてゐて下さいね。お話したいことがあるのです。」へんによそよそしい口調でさう言つて鉛筆を取り直し、またスケツチにふけりはじめた。私はそのうしろに立つたままで暫くもぢもぢしてゐたが、やがて決心をつけてベンチへ腰をおろし、佐竹のスケツチブツクをそつと覗いてみた。佐竹はすぐに察知したらしく、
「ペリカンをかいてゐるのです。」とひくく私に言つて聞かせながら、ペリカンの樣樣の姿態をおそろしく亂暴な線でさつさと寫しとつてゐた。「僕のスケツチをいちまい二十圓くらゐで、何枚でも買つて呉れるといふひとがあるのです。」にやにやひとりで笑ひだした。「僕は馬場みたいに出鱈目を言ふことはきらひですねえ。荒城の月の話はまだですか?」
「荒城の月、ですか?」私にはわけがわからなかつた。
「ぢやあ、まだですね。」うしろむきのペリカンを紙面の隅に大きく寫しながら、「馬場がむかし、瀧廉太郎といふ匿名で荒城の月といふ曲を作つて、その一切の權利を山田耕筰に三千圓で賣りつけた。」
「それが、あの、有名な荒城の月ですか?」私の胸は躍つた。
「嘘ですよ。」一陣の風がスケツチブツクをぱらぱらめくつて、裸婦や花のデツサンをちらちら見せた。「馬場の出鱈目は有名ですよ。また巧妙ですからねえ。誰でもはじめは、やられますよ。ヨオゼフ・シゲテイは、まだですか?」
「それは聞きました。」私は悲しい氣持ちであつた。
「ルフラン附きの文章か。」つまらなさうにさう言つて、スケツチブツクをぱちんと閉ぢた。「どうもお待たせしました。すこし歩きませうよ。お話したいことがあるのです。」
 けふは貘の夫婦をあきらめよう。さうして、私にとつて貘よりもさらにさらに異樣に思はれるこの佐竹といふ男の話に、耳傾けよう。水禽の大鐵傘を過ぎて、おつとせいの水槽のまへを通り、小山のやうに巨大なひぐまの、檻のまへにさしかかつたころ、佐竹は語りはじめた。まへにも何囘となく言つて言ひ馴れてゐるやうな諳誦口調であつて、文章にすればいくらか熱のある言葉のやうにもみえるが實際は、れいの嗄れた陰氣くさい低聲でもつてさらさら言ひ流してゐるだけのことなのである。
「馬場は全然だめです。音樂を知らない音樂家があるでせうか。僕はあいつが音樂につい
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