うであつたが、べつだん驚きもせずゆつたりした歩調で私と少しはなれて歩きながら、兩側の小窓小窓の女の顏をひとつひとつ熟察してゐた。路地へはひり路地を拔け路地を曲り路地へ行きついてから私は立ちどまり馬場の横腹をそつと小突いて、僕はこの女のひとを好きなのです。ええ、よつぽどまへからと囁いた。私の戀の相手はまばたきもせず小さい下唇だけをきゆつと左へうごかして見せた。馬場も立ちどまり、兩腕をだらりとさげたまま首を前へ突きだして、私の女をつくづくと凝視しはじめたのである。やがて、振りかへりざま、叫ぶやうにして言つた。
「やあ、似てゐる。似てゐる。」
 はつとはじめて氣づいた。
「いいえ、菊ちやんにはかなひません。」私は固くなつて、へんな應へかたをした。ひどくりきんでゐたのである。馬場はかるく狼狽の樣子で、
「くらべたりするもんぢやないよ」と言つて笑つたが、すぐにけはしく眉をひそめ、「いや、ものごとはなんでも比較してはいけないんだ。比較根性の愚劣。」と自分へ説き聞かせるやうにゆつくり呟きながら、ぶらぶら歩きだした。あくる朝、私たちはかへりの自動車のなかで、默つてゐた。一口でも、ものを言へば毆り合ひになりさうな氣まづさ。自動車が淺草の雜沓のなかにまぎれこみ、私たちもただの人の氣樂さをやうやく感じて來たころ、馬場はまじめに呟いた。
「ゆうべ女のひとがねえ、僕にかういつて教へたものだ。あたしたちだつて、はたから見るほど樂ぢやないんだよ。」
 私は、つとめて大袈裟に噴きだして見せた。馬場はいつになくはればれと微笑み、私の肩をぽんと叩いて、
「日本で一番よいまちだ。みんな胸を張つて生きてゐるよ。恥ぢてゐない。おどろいたなあ。一日一日をいつぱいに生きてゐる。」
 それ以後、私は馬場へ肉親のやうに馴れて甘えて、生れてはじめて友だちを得たやうな氣さへしてゐた。友を得たと思つたとたんに私は戀の相手をうしなつた。それが、口に出して言はれないやうな、われながらみつともない形で女のひとに逃げられたものであるから、私は少し評判になり、たうとう、佐野次郎といふくだらない名前までつけられた。いまだからこそ、こんなふうになんでもない口調で語れるのであるが、當時は、笑ひ話どころではなく、私は死なうと思つてゐた。幻燈のまちの病氣もなほらず、いつ不具者になるかわからぬ状態であつたし、ひとはなぜ生きてゐなければいけないのか、そのわけが私には呑みこめなかつた。ほどなく暑中休暇にはひり、東京から二百里はなれた本州の北端の山の中にある私の生家にかへつて、一日一日、庭の栗の木のしたで籐椅子にねそべり、煙草を七十本づつ吸つてぼんやりくらしてゐた。馬場が手紙を寄こした。
 拜啓。
 死ぬことだけは、待つて呉れないか。僕のために。君が自殺をしたなら、僕は、ああ僕へのいやがらせだな、とひそかに自惚れる。それでよかつたら、死にたまへ。僕もまた、かつては、いや、いまもなほ、生きることに不熱心である。けれども僕は自殺をしない。誰かに自惚れられるのが、いやなんだ。病氣と災難とを待つてゐる。けれどもいまのところ、僕の病氣は齒痛と痔である。死にさうもない。災難もなかなか來ない。僕の部屋の窓を夜どほし明けはなして盜賊の來襲を待ち、ひとつ彼に殺させてやらうと思つてゐるのであるが、窓からこつそり忍びこむ者は、蛾と羽蟻とかぶとむし、それから百萬の蚊軍。(君曰く、ああ僕とそつくりだ!)君、一緒に本を出さないか。僕は、本でも出して借金を全部かへしてしまつて、それから三日三晩くらゐぶつつづけにこんこんと眠りたいのだ。借金とは宙ぶらりんな僕の肉體だ。僕の胸には借金の穴が黒くぽかんとあいてゐる。本を出したおかげでこの滿たされぬ空洞がいよいよ深くなるかも知れないが、そのときにはまたそれでよし。とにかく僕は、僕自身にうまくひつこみをつけたいのだ。本の名は、海賊。具體的なことがらについては、君と相談のうへできめるつもりであるが、僕のプランとしては、輸出むきの雜誌にしたい。相手はフランスがよからう。君はたしかにずば拔けて語學ができる樣子だから、僕たちの書いた原稿をフランス語に直しておくれ。アンドレ・ジツドに一册送つて批評をもらはう。ああ、ヴアレリイと直接に論爭できるぞ。あの眠たさうなプルウストをひとつうろたへさせてやらうぢやないか。(君曰く、殘念、プルウストはもう死にました。)コクトオはまだ生きてゐるよ。君、ラデイゲが生きてゐたらねえ。デコブラ先生にも送つてやつてよろこばせてやるか、可哀さうに。
 こんな空想はたのしくないか。しかも實現はさほど困難でない。(書きしだい、文字が乾く。手紙文といふ特異な文體。敍述でもなし、會話でもなし、描寫でもなし、どうも不思議な、それでゐてちやんと獨立してゐる無氣味な文體。いや、ばかなことを言つた。)
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