ゆうべ徹夜で計算したところに依ると、三百圓で、素晴らしい本が出來る。それくらゐなら、僕ひとりでも、どうにかできさうである。君は詩を書いてポオル・フオオルに讀ませたらよい。僕はいま海賊の歌といふ四樂章からなる交響曲を考へてゐる。できあがつたら、この雜誌に發表し、どうにかしてラヴエルを狼狽させてやらうと思つてゐる。くりかへして言ふが、實現は困難でない。金さへあれば、できる。實現不可能の理由としては、何があるか。君もはなやかな空想でせいぜい胸をふくらませて置いたはうがよい。どうだ。(手紙といふものは、なぜおしまひに健康を祈らなければいけないのか。頭はわるし、文章はまづく、話術が下手くそでも、手紙だけは巧い男といふ怪談がこの世の中にある。)ところで僕は、手紙上手であるか。それとも手紙下手であるか。さよなら。
 これは別なことだが、いまちよつと胸に浮んだから書いておく。古い質問、「知ることは幸福であるか。」
  佐野次郎左衞門樣、[#地から3字上げ]馬場數馬。

     二 海賊

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ナポリを見てから死ね!
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 Pirate といふ言葉は、著作物の剽竊者を指していふときにも使用されるやうだが、それでもかまはないか、と私が言つたら、馬場は即座に、いよいよ面白いと答へた。Le Pirate, ――雜誌の名はまづきまつた。マラルメや※[#濁点付き片仮名ヱ、1−7−84]ルレエヌの關係してゐた La Basoche, ※[#濁点付き片仮名ヱ、1−7−84]ルハアレン一派の La Jeune Belgique, そのほか La Semaine, Le Type. いづれも異國の藝苑に咲いた眞紅の薔薇。むかしの若き藝術家たちが世界に呼びかけた機關雜誌。ああ、われらもまた。暑中休暇がすんであたふたと上京したら、馬場の海賊熱はいよいよあがつてゐて、やがて私にもそのまま感染し、ふたり寄ると觸ると Le Pirate についての、はなやかな空想を、いやいや、具體的なプランについて語り合つたのである。春と夏と秋と冬と一年に四囘づつ發行のこと。菊倍判六十頁。全部アート紙。クラブ員は海賊のユニフオオムを一着すること。胸には必ず季節の花を。クラブ員相互の合言葉。――一切誓ふな。幸福とは? 審判する勿れ。ナポリを見てから死ね! 等々。仲間はかならず二十代の美青年たるべきこと。一藝に於いて秀拔の技倆を有すること。The Yellow Book の故智にならひ、ビアヅレイに匹敵する天才畫家を見つけ、これにどんどん※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]畫をかかせる。國際文化振興會なぞをたよらずに異國へわれらの藝術をわれらの手で知らせてやらう。資金として馬場が二百圓、私が百圓、そのうへほかの仲間たちから二百圓ほど出させる豫定である。仲間、――馬場が彼の親類筋にあたる佐竹六郎といふ東京美術學校の生徒をまづ私に紹介して呉れる段取りとなつた。その日、私は馬場との約束どほり、午後の四時頃、上野公園の菊ちやんの甘酒屋を訪れたのであるが、馬場は紺飛白の單衣に小倉の袴といふ維新風俗で赤毛氈の縁臺に腰かけて私を待つてゐた。馬場の足もとに、眞赤な麻の葉模樣の帶をしめ白い花の簪をつけた菊ちやんが、お給仕の塗盆を持つて丸く蹲つて馬場の顏をふり仰いだまま、みじろぎもせずじつとしてゐた。馬場の蒼黒い顏には弱い西日がぽつと明るくさしてゐて、夕靄がもやもや烟つてふたりのからだのまはりを包み、なんだかをかしな、狐狸のにほひのする風景であつた。私が近づいていつて、やあ、と馬場に聲をかけたら、菊ちやんが、あ、と小さく叫んで飛びあがり、ふりむいて私に白い齒を見せて挨拶したが、みるみる豐かな頬をあかくした。私も少しどぎまぎして、わるかつたかな? と思はず口を滑らせたら、菊ちやんは一瞬はつと表情をかへて妙にまじめな眼つきで私の顏を見つめたかと思ふと、くるつと私に背をむけお盆で顏をかくすやうにして店の奧へ駈けこんでいつたものだ。なんのことはない、あやつり人形の所作でも見てゐるやうな心地がした。私はいぶかしく思ひながらその後姿をそれとなく見送り縁臺に腰をおろすと、馬場はにやにやうす笑ひして言ひだした。
「信じ切る。そんな姿はやつぱり好いな。あいつがねえ。」白馬驕不行の碾茶の茶碗は流石にてれくさい故をもつてか、とうのむかしに廢止されて、いまは普通のお客と同じに店の青磁の茶碗。番茶を一口すすつて、「僕のこの不精髭を見て、幾日くらゐたてばそんなに伸びるの? と聞くから、二日くらゐでこんなになつてしまふのだよ。ほら、じつとして見てゐなさい。鬚がそよそよと伸びるのが肉眼でも判るほどだから、と眞顏で教へたら、だまつてしやがんで僕の顎を皿のやうなおほ
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