たい、彼にはどのやうな音樂理論があるのか、ヴアイオリニストとしてどれくらゐの腕前があるのか、作曲家としてはどんなものか、そんなことさへ私には一切わかつて居らぬのだ。馬場はときたま、てかてか黒く光るヴアイオリンケエスを左腕にかかへて持つて歩いてゐることがあるけれども、ケエスの中にはつねに一物もはひつてゐないのである。彼の言葉に依れば、彼のケエスそれ自體が現代のサンボルだ、中はうそ寒くからつぽであるといふんだが、そんなときには私は、この男はいつたいヴアイオリンを一度でも手にしたことがあるのだらうかといふ變な疑ひをさへ抱くのである。そんな案配であるから、彼の天才を信じるも信じないも、彼の技倆を計るよすがさへない有樣で、私が彼にひきつけられたわけは、他にあるのにちがひない。私もまたヴアイオリンよりヴアイオリンケエスを氣にする組ゆゑ、馬場の精神や技倆より、彼の風姿や冗談に魅せられたのだといふやうな氣もする。彼は實にしばしば服裝をかへて、私のまへに現はれる。さまざまの背廣服のほかに、學生服を着たり、菜葉服を着たり、あるときには角帶に白足袋といふ恰好で私を狼狽させ赤面させた。彼の平然と呟くところに依れば、彼がこのやうにしばしば服裝をかへるわけは、自分についてどんな印象をもひとに與へたくない心からなんださうである。言ひ忘れてゐたが、馬場の生家は東京市外の三鷹村下連雀にあり、彼はそこから市内へ毎日かかさず出て來て遊んでゐるのであつて、親爺は地主か何かでかなりの金持ちらしく、そんな金持ちであるからこそ樣樣に服裝をかへたりなんかしてみることもできるわけで、これも謂はば地主の悴の贅澤の一種類にすぎないのだし、――さう考へてみれば、べつだん私は彼の風采のゆゑにひきつけられてゐるのでもないやうだぞ。金錢のせゐであらうか。頗る言ひにくい話であるが、彼とふたりで遊び歩いてゐると勘定はすべて彼が拂ふ。私を押しのけてまで支拂ふのである。友情と金錢とのあひだには、このうへなく微妙な相互作用がたえずはたらいてゐるものらしく、彼の豐潤の状態が私にとつていくぶん魅力になつてゐたことも爭はれない。これは、ひよつとしたら、馬場と私との交際は、はじめつから旦那と家來の關係にすぎず、徹頭徹尾、私がへえへえ牛耳られてゐたといふ話に終るだけのことのやうな氣もする。
ああ、どうやらこれは語るに落ちたやうだ。つまりそのころの私は、さきにも鳥渡言つて置いたやうに金魚の糞のやうな無意志の生活をしてゐたのであつて、金魚が泳げば私もふらふらついて行くといふやうな、そんなはかない状態で馬場とのつき合ひをもつづけてゐたにちがひないのである。ところが、八十八夜。――妙なことには、馬場はなかなか暦に敏感らしく、けふは、かのえさる、佛滅だと言つてしよげかへつてゐるかと思ふと、けふは端午だ、やみまつり、などと私にはよく意味のわからぬやうなことまでぶつぶつ呟いてゐたりする有樣で、その日も、私が上野公園のれいの甘酒屋で、はらみ猫、葉櫻、花吹雪、毛蟲、そんな風物のかもし出す晩春のぬくぬくした爛熟の雰圍氣をからだぢゆうに感じながら、ひとりしてビイルを呑んでゐたのであるが、ふと氣がついてみたら、馬場がみどりいろの派手な背廣服を着ていつの間にか私のうしろのはうに坐つてゐたのである。れいの低い聲で、「けふは八十八夜。」さうひとこと呟いたかと思ふともう、てれくさくてかなはんとでもいふやうにむつくり立ちあがつて兩肩をぶるつと大きくゆすつた。八十八夜を記念しようといふ、なんの意味もない決心を笑ひながら固めて、二人、淺草へ呑みに出かけることになつたのであるが、その夜、私はいつそく飛びに馬場へ離れがたない親狎の念を抱くにいたつた。淺草の酒の店を五六軒。馬場はドクタア・プラアゲと日本の樂壇との喧嘩を噛んで吐きだすやうにしながらながながと語り、プラアゲは偉い男さ、なぜつて、とまた獨りごとのやうにしてその理由を呟いてゐるうちに、私は私の女と逢ひたくて、居ても立つてもゐられなくなつた。私は馬場を誘つた。幻燈を見に行かうと囁いたのだ。馬場は幻燈を知らなかつた。よし、よし。けふだけは僕が先輩です。八十八夜だから連れていつてあげませう。私はそんなてれかくしの冗談を言ひながら、プラアゲ、プラアゲ、となほも低く呟きつづけてゐる馬場を無理、矢理、自動車に押しこんだ。急げ! ああ、いつもながらこの大川を越す瞬間のときめき。幻燈のまち。そのまちには、よく似た路地が蜘蛛の巣のやうに四通八達してゐて、路地の兩側の家々の、一尺に二尺くらゐの小窓小窓でわかい女の顏が花やかに笑つてゐるのであつて、このまちへ一歩踏みこむと肩の重みがすつと拔け、ひとはおのれの一切の姿勢を忘却し、逃げ了せた罪人のやうに美しく落ちつきはらつて一夜をすごす。馬場にはこのまちが始めてのや
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