好きなんだ。川のむかふにゐた女よりさきに菊ちやんを見て知つてゐたやうな氣もするのです。」
「まあ、いい。」馬場はさう呟いて微笑んでみせたが、いきなり左手で顏をひたと覆つて、嗚咽をはじめた。芝居の臺詞みたいな一種リズミカルな口調でもつて、「君、僕は泣いてゐるのぢやないよ。うそ泣きだ。そら涙だ。ちくしやう! みんなさう言つて笑ふがいい。僕は生れたときから死ぬるきはまで狂言をつづけ了せる。僕は幽靈だ。ああ、僕を忘れないで呉れ! 僕には才分があるのだ。荒城の月を作曲したのは、誰だ。瀧廉太郎を僕ぢやないといふ奴がある。それほどまでにひとを疑はなくちや、いけないのか。嘘なら嘘でいい。――いや、うそぢやない。正しいことは正しく言ひ張らなければいけない。絶對に嘘ぢやない。」
私はひとりでふらふら外へ出た。雨が降つてゐた。ちまたに雨が降る。ああ、これは先刻、太宰が呟いた言葉ぢやないか。さうだ、私は疲れてゐるんだ。かんにんしてお呉れ。あ! 佐竹の口眞似をした。ちえつ! あああ、舌打ちの音まで馬場に似て來たやうだ。そのうちに、私は荒涼たる疑念にとらはれはじめたのである。私はいつたい誰だらう、と考へて、慄然とした。私は私の影を盜まれた。何が、フレキシビリテイの極致だ! 私は、まつすぐに走りだした。齒醫者。小鳥屋。甘栗屋。ベエカリイ。花屋。街路樹。古本屋。洋館。走りながら私は自分が何やらぶつぶつ低く呟いてゐるのに氣づいた。――走れ、電車。走れ、佐野次郎。走れ、電車。走れ、佐野次郎。出鱈目な調子をつけて繰り返し繰り返し歌つてゐたのだ。あ、これが私の創作だ。私の創つた唯一の詩だ。なんといふだらしなさ! 頭がわるいから駄目なんだ。だらしがないから駄目なんだ。ライト。爆音。星。葉。信號。風。あつ!
四
「佐竹。ゆうべ佐野次郎が電車にはね飛ばされて死んだのを知つてゐるか。」
「知つてゐる。けさ、ラジオのニユウスで聞いた。」
「あいつ、うまく災難にかかりやがつた。僕なんか、首でも吊らなければおさまりがつきさうもないのに。」
「さうして、君がいちばん長生きをするだらう。いや、僕の豫言はあたるよ。君、――」
「なんだい。」
「ここに二百圓だけある。ペリカンの畫が賣れたのだ。佐野次郎氏と遊びたくてせつせとこれだけこしらへたのだが。」
「僕におくれ。」
「いいとも。」
「菊ちやん。佐野次郎は
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