では一銭の小使いも与えられず、支那の君子人の言葉を暗誦《あんしょう》することだけを強いられた。三郎はその支那の君子人の言葉を水洟《みずばな》すすりあげながら呟《つぶや》き呟き、部屋部屋の柱や壁の釘《くぎ》をぷすぷすと抜いて歩いた。釘が十本たまれば、近くの屑屋へ持って行って一銭か二銭で売却した。花林糖《かりんとう》を買うのである。あとになって父の蔵書がさらに十倍くらいのよい値で売れることを屑屋から教わり、一冊二冊と持ち出し、六冊目に父に発見された。父は涙をふるってこの盗癖のある子を折檻《せっかん》した。こぶしでつづけさまに三つほど三郎の頭を殴り、それから言った。これ以上の折檻は、お前のためにもわしのためにもいたずらに空腹を覚えさせるだけのことだ。それゆえ折檻はこれだけにしてやめる。そこへ坐れ。三郎は泣く泣く悔悟《かいご》をちかわされた。三郎にとって、これが嘘のしはじめであった。
そのとしの夏、三郎は隣家の愛犬を殺した。愛犬は狆《ちん》であった。夜、狆はけたたましく吠えたてた。ながい遠吠えやら、きゃんきゃんというせわしない悲鳴やら、苦痛に堪えかねたような大げさな唸《うな》り声やら、様様の
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