はいってからもそのどこやら落ちつきはらった様子のために役人から馬鹿にはされなかったし、また同室の罪人たちからは牢名主としてあがめられた。ほかの罪人たちよりは一段と高いところに坐らされながら、次郎兵衛は彼の自作の都々逸《どどいつ》とも念仏ともつかぬ歌を、あわれなふしで口ずさんでいた。
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岩に囁《ささや》く
頬をあからめつつ
おれは強いのだよ
岩は答えなかった
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嘘の三郎
むかし江戸深川に原宮黄村という男やもめの学者がいた。支那の宗教にくわしかった。一子があり、三郎と呼ばれた。ひとり息子なのに三郎と名づけるとは流石《さすが》に学者らしくひねったものだと近所の取沙汰であった。どうしてそれが学者らしいひねりかたであるかは誰にも判らなかった。そこが学者であるということになっていた。近所での黄村の評判はあまりよくなかった。極端に吝嗇《りんしょく》であるとされていた。ごはんをたべてから必ずそれをきっちり半分もどして、それでもって糊《のり》をこしらえるという噂さえあった。
三郎の嘘《うそ》の花はこの黄村の吝嗇から芽生えた。八歳になるま
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