さすがに、きちんとした二部屋のアパートにいたが、いつも隅々《すみずみ》まで拭《ふ》き掃除《そうじ》が行きとどき、殊にも台所の器具は清潔であった。第二には、そのひとは少しも私に惚《ほ》れていない事であった。そうして私もまた、少しもそのひとに惚れていないのである。性慾に就《つ》いての、あのどぎまぎした、いやらしくめんどうな、思いやりだか自惚《うぬぼ》れだか、気を引いてみるとか、ひとり角力《ずもう》とか、何が何やら十年一日どころか千年一日の如き陳腐《ちんぷ》な男女闘争をせずともよかった。私の見たところでは、そのひとは、やはり別れた夫を愛していた。そうして、その夫の妻としての誇を、胸の奥深くにしっかり持っていた。第三には、そのひとが私の身の上に敏感な事であった。私がこの世の事がすべてつまらなくて、たまらなくなっている時に、この頃おさかんのようですね、などと言われるのは味気ないものである。そのひとは、私が遊びに行くと、いつでもその時の私の身の上にぴったり合った話をした。いつの時代でも本当の事を言ったら殺されますわね、ヨハネでも、キリストでも、そうしてヨハネなんかには復活さえ無いんですからね、と言った事もあった。日本の生きている作家に就いては一言も言った事が無かった。第四には、これが最も重大なところかも知れないが、そのひとのアパートには、いつも酒が豊富に在った事である。私は別に自分を吝嗇《りんしょく》だとも思っていないが、しかし、どこの酒場にも借金が溜って憂鬱《ゆううつ》な時には、いきおいただで飲ませるところへ足が向くのである。戦争が永くつづいて、日本にだんだん酒が乏しくなっても、そのひとのアパートを訪れると、必ず何か飲み物があった。私はそのひとのお嬢さんにつまらぬ物をお土産として持って行って、そうして、泥酔《でいすい》するまで飲んで来るのである。以上の四つが、なぜそのひとが私にとって、れいの「唯一のひと」であるかという設問の答案なのであるが、それがすなわちお前たち二人の恋愛の形式だったのではないか、と問いつめられると、私は、間抜け顔して、そうかも知れぬ、と答えるより他は無い。男女間の親和は全部恋愛であるとするなら、私たちの場合も、そりゃそうかも知れないけれど、しかし私は、そのひとに就いて煩悶《はんもん》した事は一度も無いし、またそのひとも、芝居がかったややこしい事はきらってい
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