に、鴎《かもめ》の泣き声に似た声が、釜の中から聞えた切りで、あとは又、お湯の煮えたぎる音と、老婆の低い呪文の声ばかりでありました。
あまりの事に、王子は声もすぐには出ませんでした。ほとんど呟くような低い声でようやく、
「何をするのだ! 殺せとは、たのまなかった。釜で煮よとは、いいつけなかった。かえしてくれ。私のラプンツェルを返してくれ。おまえは、悪魔だ!」とだけは言ってみたものの、それ以上、老婆に食ってかかる気力もなく、ラプンツェルの空のベッドにからだを投げて、わあ! と大声で、子供のように泣き出しました。
老婆は、それにおかまいなく、血走った眼で釜を見つめ、額から頬から頸《くび》から、だらだら汗を流して一心に呪文をとなえているのでした。ふっと呪文が、とぎれた、と同時に釜の中の沸騰の音も、ぴたりと止みましたので、王子は涙を流しながら少し頭を挙げて、不審そうに祭壇を見た時、嗚呼《ああ》、「ラプンツェル、出ておいで。」という老婆の勝ち誇ったような澄んだ呼び声に応えて、やがて現われた、ラプンツェルの顔。
その六
――美人であった。その顔は、輝くばかりに美しかった。――と長兄は、大いに興奮して書きつづけた。長兄の万年筆は、実に太い。ソーセージくらいの大きさである。その堂々たる万年筆を、しかと右手に握って胸を張り、きゅっと口を引き締め、まことに立派な態度で一字一字、はっきり大きく書いてはいるが、惜しい事には、この長兄には、弟妹ほどの物語の才能が無いようである。弟妹たちは、それゆえ此の長兄を少しく、なめているようなふうがあるけれども、それは弟妹たちの不遜《ふそん》な悪徳であって、長兄には長兄としての無類のよさもあるのである。嘘を、つかない。正直である。そうして所謂《いわゆる》人情には、もろい。いまも、ラプンツェルが、釜から出て来て、そうして魔法使いの婆さんの顔のように醜く恐ろしい顔をしていた等とは、どうしても書けないのである。それでは、あまりにラプンツェルが可哀想だ。王子に気の毒だ、と義憤をさえ感じて、美人であった、その顔は輝くばかりに美しかった、と勢い込んで書いたのであるが、さて、そのあとがつづかない。どうも長兄は、真面目すぎて、それゆえ空想力も甚《はなは》だ貧弱のようである。物語の才能というものは、出鱈目《でたらめ》の狡猾《こうかつ》な人間ほど豊富に
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