ろまん燈籠
太宰治
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)亡《な》くなった
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)大声|叱咤《しった》、
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#「風のように」は底本では「風のよう」]
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その一
八年まえに亡《な》くなった、あの有名な洋画の大家、入江新之助氏の遺家族は皆すこし変っているようである。いや、変調子というのではなく、案外そのような暮しかたのほうが正しいので、かえって私ども一般の家庭のほうこそ変調子になっているのかも知れないが、とにかく、入江の家の空気は、普通の家のそれとは少し違っているようである。この家庭の空気から暗示を得て、私は、よほど前に一つの短篇小説を創ってみた事がある。私は不流行の作家なので、創った作品を、すぐに雑誌に載せてもらう事も出来ず、その短篇小説も永い間、私の机の引き出しの底にしまわれたままであったのである。その他にも、私には三つ、四つ、そういう未発表のままの、謂《い》わば筐底《きょうてい》深く秘めたる作品があったので、おととしの早春、それらを一纏《ひとまと》めにして、いきなり単行本として出版したのである。まずしい創作集ではあったが、私には、いまでも多少の愛着があるのである。なぜなら、その創作集の中の作品は、一様に甘《あま》く、何の野心も持たず、ひどく楽しげに書かれているからである。いわゆる力作は、何だかぎくしゃくして、あとで作者自身が読みかえしてみると、いやな気がしたり等するものであるが、気楽な小曲には、そんな事が無いのである。れいに依《よ》って、その創作集も、あまり売れなかったようであるが、私は別段その事を残念にも思っていない。売れなくて、よかったとさえ思っている。愛着は感じていても、その作品集の内容を、最上質のものとは思っていないからである。冷厳の鑑賞には、とても堪えられる代物《しろもの》ではないのである。謂わば、だらしない作品ばかりなのである。けれども、作者の愛着は、また自《おのずか》ら別のものらしく、私は時折、その甘ったるい創作集を、こっそり机上に開いて読んでいる事もあるのである。その創作集の中でも、最も軽薄で、しかも一ばん作者に愛されている作品は、すなわち、冒頭に於《お》いて述べた入江新之助氏の遺家族から暗示
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