この路を避けて通れ。これは、確実にむなしい、路なのだから、と審判という燈台は、この世ならず厳粛に語るだろう。けれども、今宵の私は、そんなに永く生きていたくない。おのれのスパルタを汚すよりは、錨《いかり》をからだに巻きつけて入水《じゅすい》したいものだとさえ思っている。
 さもあらばあれ、「晩年」一冊、君のその両手の垢《あか》で黒く光って来るまで、繰り返し繰り返し愛読されることを思うと、ああ、私は幸福だ。――一瞬間。ひとは、その生涯に於いて、まことの幸福を味い得る時間は、これは、百|米《メートル》十秒一どころか、もっと短いようである。声あり。「嘘だ! 不幸なる出版なら、やめるがよい。」答えて曰《いわ》く、「われは、いまの世に二となき美しきもの。メジチのヴィナス像。いまの世のまことの美の実証を、この世にのこさんための出版也。
 見よ! ヴィナス像の色に出ずるほどの羞恥のさま。これ、わが不幸のはじめ。また、春夏秋冬つねに裸体にして、とわに無言、やや寒き貌《かお》こそ、(美人薄命、)天のこの冷酷極りなき嫉妬《しっと》の鞭《むち》を、かの高雅なる眼もてきみにそと教えて居る。」

     気がか
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