ともウール・シュタンドに近き文士《ぶんし》は、白樺派の公達《きんだち》、葛西《かさい》善蔵、佐藤春夫。佐藤、葛西、両氏に於いては、自由などというよりは、稀代《きたい》のすねものとでも言ったほうが、よりよく自由という意味を言い得て妙なふうである。ダス・ゲマイネは、菊池寛である。しかも、ウール・シュタンドにせよ、ダス・ゲマイネにせよ、その優劣をいますぐここで審判するなど、もってのほかというべきであろう。人ありて、菊池寛氏のダス・ゲマイネのかなしさを真正面から見つめ、論ずる者なきを私はかなしく思っている。さもあらばあれ、私の小説「ダス・ゲマイネ」発表数日後、つぎの如き全く差出人不明のはがきが一枚まい込んで来たのである。

  うつしみに
  きみのゑがきし
  をとめのゑ
  うらふりしけふ
  こころわびしき

 右、春の花と秋の紅葉といずれ美しきという題にて。
                        よみ人しらず。

 名を名乗れ! 私はこの一首のうたのために、確実に、七八日、ただ、胸を焦がさむほどにわくわくして歩きまわっていた。ウール・シュタンドも、ケエベル先生もあったものでなし。所詮、私は、一箇の感傷家にすぎないのではないのか。

     金銭について

 ついに金銭は最上のものでなかった。いま私、もし千円もらっても、君がほしければ、君に、あげる。のこっているものは、蒼空《あおぞら》の如き太古のすがたとどめたる汚れなき愛情と、――それから、もっとも酷薄にして、もっとも気永なる復讐心。

     放心について

 森羅万象の美に切りまくられ踏みつけられ、舌を焼いたり、胸を焦がしたり、男ひとり、よろめきつつも、或る夜ふと、かすかにひかる一条の路を見つけた! と思い込んで、はね起きる。走る。ひた走りに走る。一瞬間のできごとである。私はこの瞬間を、放心の美と呼称しよう。断じて、ダス・デモニッシュのせいではない。人のちからの極致である。私は神も鬼も信じていない。人間だけを信じている。華厳《けごん》の滝が涸《か》れたところで、私は格別、痛嘆しない。けれども、俳優、羽左衛門の壮健は祈らずに居れないのだ。柿右衛門の作ひとつにでも傷をつけないように。きょう以後「人工の美」という言葉をこそ使うがよい。いかに天衣なりといえども、無縫ならば汚くて見られぬ。
 附言する。かかる
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