を食べなければ生きて居られないとは、何という不体裁な事でしょう。「おい、戦争がもっと苛烈《かれつ》になって来て、にぎりめし一つを奪い合いしなければ生きてゆけないようになったら、おれはもう、生きるのをやめるよ。にぎりめし争奪戦参加の権利は放棄するつもりだからね。気の毒だが、お前もその時には子供と一緒に死ぬる覚悟をきめるんだね。それがもう、いまでは、おれの唯一の、せめてものプライドなんだから。」とかねて妻に向って宣言していたのですが、「その時」がいま来たように思われました。
窓外の風景をただぼんやり眺めているだけで、私には別になんのいい智慧《ちえ》も思い浮びません。或る小さい駅から、桃《もも》とトマトの一ぱいはいっている籠《かご》をさげて乗り込んで来たおかみさんがありました。
たちまち、そのおかみさんは乗客たちに包囲され、何かひそひそ囁《ささ》やかれています。「だめだよ。」とおかみさんは強気のひとらしく、甲高い声で拒否し、「売り物じゃないんだ。とおしてくれよ、歩かれないじゃないか!」人波をかきわけて、まっすぐに私のところへ来て私のとなりに坐り込みました。この時の、私の気持は、妙なものでした。私は自分を、女の心理に非常に通暁《つうぎょう》している一種の色魔なのではないかしらと錯覚し、いやらしい思いをしました。ボロ服の乞食姿で、子供を二人も連れている色魔もないものですが、しかし、幽《かす》かに私には心理の駈引《かけひ》きがあったのです。他の乗客が、その果物籠をめがけて集り大騒ぎをしているあいだも、私はそれには全く興味がなさそうに、窓の外の景色をぼんやり眺めていたのです。内心は、私こそ誰よりも最も、その籠の内容物に関心を持っていたに違いないのですが、けれども私は、我慢してその方向には一瞥《いちべつ》もくれなかったのでした。それが成功したのかも知れない、と思うと、なんだか自分が、案外に女たらしの才能のある男のような感じがして、うしろぐらい気が致しました。
「どこまで?」
おかみさんは、せかせかした口調で、前の席に坐っている妻に話掛けます。
「青森のもっと向うです。」
と妻はぶあいそに答えます。
「それは、たいへんだね。やっぱり罹災《りさい》したのですか。」
「はあ。」
妻は、いったいに、無口な女です。
「どこで?」
「甲府で。」
「子供を連れているんでは、やっかいだ。
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