あがりませんか?」
 桃とトマトを十ばかり、すばやく妻の膝《ひざ》の上に乗せてやって、
「隠して下さい。他の野郎たちが、うるさいから。」
 果して、大型の紙幣を片手に握ってそれとなく見せびらかし、「いくつでもいいよ、売ってくれ」と小声で言って迫る男があらわれました。
「うるさいよ。」
 おかみさんは顔をしかめ、
「売り物じゃないんだよ。」
 と叫んで追い払います。
 それから、妻は、まずい事を仕出かしました。突然お金を、そのおかみさんに握らせようとしたのです。たちまち、
 ま!
 いや!
 いいえ!
 さ!
 どう!
 などと、殆《ほと》んど言葉にも何もなっていない小さい叫びが二人の口から交互に火花の如くぱっぱっと飛び出て、そのあいだ、眼にもとまらぬ早さでお金がそっちへ行ったりこっちへ来たりしていました。
 じんどう!
 たしかに、おかみさんの口から、そんな言葉も飛び出しました。
「そりゃ、失礼だよ。」
 と私は低い声で言って妻をたしなめました。
 こうして書くと長たらしくなりますが、妻がお金を出して、それから火花がぱっぱっと散って、それから私が仲裁にはいって、妻がしぶしぶまた金をひっこめるまで五秒とかからなかったでしょう。実に電光の如く、一瞬のあいだの出来事でした。
 私の観察に依《よ》れば、そのおかみさんが「売り物でない」と言ってはいるけれども、しかし、それは汽車の中では売りたくないというだけの事で、やはり商売人に違いないのでした。自分の家に持ち運んで、それを誰か特定の人にゆずるのかどうか、そこまではわかりませんが、とにかく「売り物」には違いないようでした。しかし、既に人道というけなげな言葉が発せられている以上、私たちはそのおかみさんを商売人として扱うわけにはゆかなくなりました。
 人道。
 もちろん、おかみさんのその心意気を、ありがたく、うれしく思わぬわけではないのですが、しかしまた、胸底に於《お》いていささか閉口の気もありました。
 人道。
 私は、お礼の言葉に窮しました。思案のあげく、私のいま持っているもので一ばん大事なものを、このおかみさんに差上げる事にしました。私にはまだ煙草が二十本ほどありました。そのうちの十本を、私はおかみさんに差し出しました。
 おかみさんは、お金の時ほど強く拒絶しませんでした。私は、やっと、ほっとしました。そのおかみさんは仙台の
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