参らせてやらう、と意気込み、亀に別離の挨拶するのも忘れて汀に飛び降り、あたふたと生家に向つて急けば、
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ドウシタンデセウ モトノサト
ドウシタンデセウ モトノイヘ
ミワタスカギリ アレノハラ
ヒトノカゲナク ミチモナク
マツフクカゼノ オトバカリ
[#ここで字下げ終わり]
といふ段どりになるのである。浦島は、さんざん迷つた末に、たうとうかの竜宮のお土産の貝殻をあけて見るといふ事になるのであるが、これに就いて、あの亀が責任を負ふ必要はないやうに思はれる。「あけてはならぬ」と言はれると、なほ、あけて見たい誘惑を感ずると云ふ人間の弱点は、この浦島の物語に限らず、ギリシヤ神話のパンドラの箱の物語に於いても、それと同様の心理が取りあつかはれてゐるやうだ。しかし、あのパンドラの箱の場合は、はじめから神々の復讐が企図せられてゐたのである。「あけてはならぬ」といふ一言が、パンドラの好奇心を刺戟して、必ずや後日パンドラが、その箱をあけて見るにちがひないといふ意地悪い予想のもとに「あけるな」といふ禁制を宣告したのである。それに引きかへ、われわれの善良な亀は、まつたくの深切から浦島にそれを言つたのだ。あの時の亀の、余念なささうな言ひ方に依つても、それは信じていいと思ふ。あの亀は正直者だ。あの亀には責任が無い。それは私も確信をもつて証言できるのであるが、さて、もう一つ、ここに妙な腑に落ちない問題が残つてゐる。浦島は、その竜宮のお土産をあけて見ると、中から白い煙が立ち昇り、たちまち彼は三百歳だかのお爺さんになつて、だから、あけなきやよかつたのに、つまらない事になつた、お気の毒に、などといふところでおしまひになるのが、一般に伝へられてゐる「浦島さん」物語であるが、私はそれに就いて深い疑念にとらはれてゐる。するとこの竜宮のお土産も、あの人間のもろもろの禍《わざはひ》の種の充満したパンドラの箱の如く、乙姫の深刻な復讐、或いは懲罰の意を秘めた贈り物であつたのか。あのやうに何も言はず、ただ微笑して無限に許してゐるやうな素振りを見せながらも、皮裏にひそかに峻酷の陽秋を蔵してゐて、浦島のわがままを一つも許さず、厳罰を課する意味であの貝殻を与へたのか。いや、それほど極端の悲観論を称へずとも、或いは、貴人といふものは、しばしば、むごい嘲弄を平気でするものであるから、乙姫もまつたく無邪気の悪戯のつもりで、こんなひとのわるい冗談をやらかしたのか。いづれにしても、あの真の上品《じやうぼん》の筈の乙姫が、こんな始末の悪いお土産を与へたとは、不可解きはまる事である。パンドラの箱の中には、疾病、恐怖、怨恨、哀愁、疑惑、嫉妬、憤怒、憎悪、呪咀、焦慮、後悔、卑屈、貪慾、虚偽、怠惰、暴行などのあらゆる不吉の妖魔がはひつてゐて、パンドラがその箱をそつとあけると同時に、羽蟻の大群の如く一斉に飛び出し、この世の隅から隅まで残るくまなくはびこるに到つたといふ事になつてゐるが、しかし、呆然たるパンドラが、うなだれて、そのからつぽの箱の底を眺めた時、その底の闇に一点の星のやうに輝いてゐる小さな宝石を見つけたといふではないか。さうして、その宝石には、なんと、「希望」といふ字がしたためられてゐたといふ。これに依つて、パンドラの蒼白の頬にも、幽かに血の色がのぼつたといふ。それ以来、人間は、いかなる苦痛の妖魔に襲はれても、この「希望」に依つて、勇気を得、困難に堪へ忍ぶ事が出来るやうになつたといふ。それに較べて、この竜宮のお土産は、愛嬌も何もない。ただ、煙だ。さうして、たちまち三百歳のお爺さんである。よしんば、その「希望」の星が貝殻の底に残つてゐたとしたところで、浦島さんは既に三百歳である。三百歳のお爺さんに「希望」を与へたつて、それは悪ふざけに似てゐる。どだい、無理だ。それでは、ここで一つ、れいの「聖諦」を与へてみたらどうか。しかし、相手は三百歳である。いまさら、そんな気取つたきざつたらしいものを与へなくたつて、人間三百歳にもなりや、いい加減、諦めてゐるよ。結局、何もかも駄目である。救済の手の差伸べやうが無い。どうにも、これはひどいお土産をもらつて来たものだ。しかし、ここで匙を投げたら、或いは、日本のお伽噺はギリシヤ神話よりも残酷である。などと外国人に言はれるかも知れない。それはいかにも無念な事だ。また、あのなつかしい竜宮の名誉にかけても、何とかして、この不可解のお土産に、貴い意義を発見したいものである。いかに竜宮の数日が陸上の数百年に当るとは言へ、何もその歳月を、ややこしいお土産などにして浦島に持たせてよこさなくてもよささうなものだ。浦島が竜宮から海の上に浮かび出たとたんに、白髪の三百歳に変化したといふのなら、まだ話がわかる。また、乙姫のお情で、浦島をいつまでも青年にして置くつもりだつたのならば、そんな危険な「あけてはならぬ」品物を、わざわざ浦島に持たせてよこす必要は無い。竜宮のどこかの隅に捨てて置いたつていいぢやないか。それとも、お前のたれた糞尿は、お前が持つて帰つたらいいだらう、といふ意味なのだらうか。それでは、何だかひどく下等な「面当《つらあ》て」みたいだ。まさかあの聖諦の乙姫が、そんな長屋の夫婦喧嘩みたいな事をたくらむとは考へられない。どうも、わからぬ。私は、それに就いて永い間、思案した。さうして、このごろに到つて、やうやく少しわかつて来たやうな気がして来たのである。
つまり、私たちは、浦島の三百歳が、浦島にとつて不幸であつたといふ先入感に依つて誤られて来たのである。絵本にも、浦島は三百歳になつて、それから、「実に、悲惨な身の上になつたものさ。気の毒だ。」などといふやうな事は書かれてゐない。
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タチマチ シラガノ オヂイサン
[#ここで字下げ終わり]
それでおしまひである。気の毒だ、馬鹿だ、などといふのは、私たち俗人の勝手な盲断に過ぎない。三百歳になつたのは、浦島にとつて、決して不幸ではなかつた[#「なかつた」に傍点]のだ。
貝殻の底に、「希望」の星があつて、それで救はれたなんてのは、考へてみるとちよつと少女趣味で、こしらへものの感じが無くもないやうな気もするが、浦島は、立ち昇る煙それ自体で救はれてゐるのである。貝殻の底には、何も残つてゐなくたつていい。そんなものは問題でないのだ。曰く、
[#ここから2字下げ]
年月は、人間の救ひである。
忘却は、人間の救ひである。
[#ここで字下げ終わり]
竜宮の高貴なもてなしも、この素張らしいお土産に依つて、まさに最高潮に達した観がある。思ひ出は、遠くへだたるほど美しいといふではないか。しかも、その三百年の招来をさへ、浦島自身の気分にゆだねた。ここに到つても、浦島は、乙姫から無限の許可を得てゐたのである。淋しくなかつたら、浦島は、貝殻をあけて見るやうな事はしないだらう。どう仕様も無く、この貝殻一つに救ひを求めた時には、あけるかも知れない。あけたら、たちまち三百年の年月と、忘却である。これ以上の説明はよさう。日本のお伽噺には、このやうな深い慈悲がある。
浦島は、それから十年、幸福な老人として生きたといふ。
[#改頁]
カチカチ山
カチカチ山の物語に於ける兎は少女、さうしてあの惨めな敗北を喫する狸は、その兎の少女を恋してゐる醜男。これはもう疑ひを容れぬ儼然たる事実のやうに私には思はれる。これは甲州、富士五湖の一つの河口湖畔、いまの船津の裏山あたりで行はれた事件であるといふ。甲州の人情は、荒つぽい。そのせゐか、この物語も、他のお伽噺に較べて、いくぶん荒つぽく出来てゐる。だいいち、どうも、物語の発端からして酷だ。婆汁なんてのは、ひどい。お道化にも洒落にもなつてやしない。狸も、つまらない悪戯をしたものである。縁の下に婆さんの骨が散らばつてゐたなんて段に到ると、まさに陰惨の極度であつて、所謂児童読物としては、遺憾ながら発売禁止の憂目に遭はざるを得ないところであらう。現今発行せられてゐるカチカチ山の絵本は、それゆゑ、狸が婆さんに怪我をさせて逃げたなんて工合に、賢明にごまかしてゐるやうである。それはまあ、発売禁止も避けられるし、大いによろしい事であらうが、しかし、たつたそれだけの悪戯に対する懲罰としてはどうも、兎の仕打は、執拗すぎる。一撃のもとに倒すといふやうな颯爽たる仇討ちではない。生殺しにして、なぶつて、なぶつて、さうして最後は泥舟でぶくぶくである。その手段は、一から十まで詭計である。これは日本の武士道の作法ではない。しかし、狸が婆汁などといふ悪どい欺術を行つたのならば、その返報として、それくらゐの執拗のいたぶりを受けるのは致し方の無いところでもあらうと合点のいかない事もないのであるが、童心に与へる影響ならびに発売禁止のおそれを顧慮して、狸が単に婆さんに怪我をさせて逃げた罰として兎からあのやうなかずかずの恥辱と苦痛と、やがてぶていさい極まる溺死とを与へられるのは、いささか不当のやうにも思はれる。もともとこの狸は、何の罪とがも無く、山でのんびり遊んでゐたのを、爺さんに捕へられ、さうして狸汁にされるといふ絶望的な運命に到達し、それでも何とかして一条の血路を切りひらきたく、もがき苦しみ、窮余の策として婆さんを欺き、九死に一生を得たのである。婆汁なんかをたくらんだのは大いに悪いが、しかし、このごろの絵本のやうに、逃げるついでに婆さんを引掻いて怪我させたくらゐの事は、狸もその時は必死の努力で、謂はば正当防衛のために無我夢中であがいて、意識せずに婆さんに怪我を与へたのかも知れないし、それはそんなに憎むべき罪でも無いやうに思はれる。私の家の五歳の娘は、器量も父に似て頗るまづいが、頭脳もまた不幸にも父に似て、へんなところがあるやうだ。私が防空壕の中で、このカチカチ山の絵本を読んでやつたら、
「狸さん、可哀想ね。」
と意外な事を口走つた。もつとも、この娘の「可哀想」は、このごろの彼女の一つ覚えで、何を見ても「可哀想」を連発し、以て子に甘い母の称讃を得ようといふ下心が露骨に見え透いてゐるのであるから、格別おどろくには当らない。或いは、この子は、父に連れられて近所の井の頭動物園に行つた時、檻の中を絶えずチヨコチヨコ歩きまはつてゐる狸の一群を眺め、愛すべき動物であると思ひ込み、それゆゑ、このカチカチ山の物語に於いても、理由の如何を問はず、狸に贔屓してゐたのかも知れない。いづれにしても、わが家の小さい同情者の言は、あまりあてにならない。思想の根拠が、薄弱である。同情の理由が、朦朧としてゐる。どだい、何も、問題にする価値が無い。しかし私は、その娘の無責任きはまる放言を聞いて、或る暗示を与へられた。この子は、何も知らずにただ、このごろ覚えた言葉を出鱈目に呟いただけの事であるが、しかし、父はその言葉に依つて、なるほど、これでは少し兎の仕打がひどすぎる、こんな小さい子供たちなら、まあ何とか言つてごまかせるけれども、もつと大きい子供で、武士道とか正々堂々とかの観念を既に教育せられてゐる者には、この兎の懲罰は所謂「やりかたが汚い」と思はれはせぬか、これは問題だ、と愚かな父は眉をひそめたといふわけである。
このごろの絵本のやうに、狸が婆さんに単なる引掻き傷を与へたくらゐで、このやうに兎に意地悪く飜弄せられ、背中は焼かれ、その焼かれた個所には唐辛子《たうがらし》を塗られ、あげくの果には泥舟に乗せられて殺されるといふ悲惨の運命に立ち到るといふ筋書では、国民学校にかよつてゐるほどの子供ならば、すぐに不審を抱くであらう事は勿論、よしんば狸が、不埒な婆汁などを試みたとしても、なぜ正々堂々と名乗りを挙げて彼に膺懲の一太刀を加へなかつたか。兎が非力であるから、などはこの場合、弁解にならない。仇討ちは須く正々堂々たるべきである。神は正義に味方する。かなはぬまでも、天誅! と一声叫んで真正面からをどりかかつて行くべきである。あまりにも腕前の差がひどかつたならば、その時には臥薪嘗胆、鞍馬山にでもはひつて一心に剣術の修行をする
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