ひく。魚どもは誰に見せようといふ衒ひも無く自由に嬉々として舞ひ遊ぶ。客の讃辞をあてにしない。客もまた、それにことさらに留意して感服したやうな顔つきをする必要も無い。寝ころんで知らん振りしてゐたつて構はないわけです。主人はもう客の事なんか忘れてゐるのだ。しかも、自由に振舞つてよいといふ許可は与へられてゐるのだ。食ひたければ食ふし、食ひたくなければ食はなくていいんだ。酔つて夢うつつに琴の音を聞いてゐたつて、敢へて失礼には当らぬわけだ。ああ、客を接待するには、すべからくこのやうにありたい。何のかのと、ろくでも無い料理をうるさくすすめて、くだらないお世辞を交換し、をかしくもないのに、矢鱈におほほと笑ひ、まあ! なんて珍らしくもない話に大仰に驚いて見せたり、一から十まで嘘ばかりの社交を行ひ、天晴れ上流の客あしらひをしてゐるつもりのケチくさい小利口の大馬鹿野郎どもに、この竜宮の鷹揚なもてなし振りを見せてやりたい。あいつらはただ、自分の品位を落しやしないか、それだけを気にしてわくわくして、さうして妙に客を警戒して、ひとりでからまはりして、実意なんてものは爪の垢ほども持つてやしないんだ。なんだい、ありや。お酒一ぱいにも、飲ませてやつたぞ、いただきましたぞ、といふやうな証文を取かはしてゐたんぢや、かなはない。」
「さう、その調子。」と亀は大喜びで、「しかし、あまりそんなに興奮して心臓痲痺なんか起されても困る。ま、この藻の岩に腰をおろして、桜桃の酒でも飲むさ。桜桃の花びらだけでは、はじめての人には少し匂ひが強すぎるかも知れないから、桜桃五、六粒と一緒に舌の上に載せると、しゆつと溶けて適当に爽涼のお酒になります。まぜ合せの仕方一つで、いろんな味に変化しますからまあ、ご自分で工夫して、お好きなやうなお酒を作つてお飲みなさい。」
浦島はいま、ちよつと強いお酒を飲みたかつた。花びら三枚に、桜桃二粒を添へて舌端に載せるとたちまち口の中一ぱいの美酒、含んでゐるだけでも、うつとりする。軽快に喉をくすぐりながら通過して、体内にぽつと灯《あか》りがともつたやうな嬉しい気持になる。
「これはいい。まさに、憂ひの玉帚だ。」
「憂ひ?」と亀はさつそく聞きとがめ、「何か憂鬱な事でもあるのですか?」
「いや、べつに、そんなわけではないが、あははは、」とてれ隠しに無理に笑ひ、それから、ほつと小さな溜息をつき、ちらと乙姫のうしろ姿を眺める。
乙姫は、ひとりで黙つて歩いてゐる。薄みどり色の光線を浴び、すきとほるやうなかぐはしい海草のやうにも見え、ゆらゆら揺蕩しながらたつたひとりで歩いてゐる。
「どこへ行くんだらう。」と思はず呟く。
「お部屋でせう。」亀は、きまりきつてゐるといふやうな顔つきで、澄まして答へる。
「さつきから、お前はお部屋お部屋と言つてゐるが、そのお部屋はいつたい、どこにあるの? 何も、どこにも、見えやしないぢやないか。」
見渡すかぎり平坦の、曠野と言つていいくらゐの鈍く光る大広間で、御殿《ごてん》らしいものの影は、どこにも無い。
「ずつと向う、乙姫の歩いて行く方角の、ずつと向うに、何か見えませんか。」と亀に言はれて、浦島は、眉をひそめてその方向を凝視し、
「ああ、さう云はれて見ると、何かあるやうだね。」
ほとんど一里も先と思はれるほどの遠方、幽潭の底を覗いた時のやうな何やら朦朧と烟つてたゆたうてゐるあたりに、小さな純白の水中花みたいなものが見える。
「あれか。小さいものだね。」
「乙姫がひとりおやすみになるのに、大きい御殿なんか要らないぢやありませんか。」
「さう言へば、まあ、さうだが、」と浦島はさらに桜桃の酒を調合して飲み、「あのお方は、何かね、いつもあんなに無口なのかね。」
「ええ、さうです。言葉といふものは、生きてゐる事の不安から、芽ばえて来たものぢやないですかね。腐つた土から赤い毒きのこが生えて出るやうに、生命の不安が言葉を醗酵させてゐるのぢやないのですか。よろこびの言葉もあるにはありますが、それにさへなほ、いやらしい工夫がほどこされてゐるぢやありませんか。人間は、よろこびの中にさへ、不安を感じてゐるのでせうかね。人間の言葉はみんな工夫です。気取つたものです。不安の無いところには、何もそんな、いやらしい工夫など必要ないでせう。私は乙姫が、ものを言つたのを聞いた事が無い。しかし、また、黙つてゐる人によくありがちの、皮裏の陽秋といふんですか、そんな胸中ひそかに辛辣の観察を行ふなんて事も、乙姫は決してなさらない。何も考へてやしないんです。ただああして幽かに笑つて琴をかき鳴らしたり、またこの広間をふらふら歩きまはつて、桜桃の花びらを口に含んだりして遊んでゐます。実に、のんびりしたものです。」
「さうかね。あのお方も、やつぱりこの桜桃の酒を飲むかね。まつたく、これは、いいからなあ。これさへあれば、何も要らない。もつといただいてもいいかしら。」
「ええ、どうぞ。ここへ来て遠慮なんかするのは馬鹿げてゐます。あなたは無限に許されてゐるのです。ついでに何か食べてみたらどうです。目に見える岩すべて珍味です。油つこいのがいいですか。軽くちよつと酸つぱいやうなのがいいですか。どんな味のものでもありますよ。」
「ああ、琴の音が聞える。寝ころんで聞いてもいいんだらうね。」無限に許されてゐるといふ思想は、実のところ生れてはじめてのものであつた。浦島は、風流の身だしなみも何も忘れて、仰向にながながと寝そべり、「ああ、あ、酔つて寝ころぶのは、いい気持だ。ついでに何か、食べてみようかな。雉の焼肉みたいな味の藻があるかね。」
「あります。」
「それと、それから、桑の実のやうな味の藻は?」
「あるでせう。しかし、あなたも、妙に野蛮なものを食べるのですね。」
「本性暴露さ。私は田舎者だよ。」と言葉つきさへ、どこやら変つて来て、「これが風流の極致だつてさ。」
眼を挙げて見ると、はるか上方に、魚の天蓋がのどかに浮び漂つてゐるのが、青く霞んで見える。とたちまち、その天蓋から一群の魚がむらむらとわかれて、おのおの銀鱗を光らせて満天に雪の降り乱れるやうに舞ひ遊ぶ。
竜宮には夜も昼も無い。いつも五月の朝の如く爽やかで、樹陰のやうな緑の光線で一ぱいで、浦島は幾日をここで過したか、見当もつかぬ。その間、浦島は、それこそ無限に許されてゐた。浦島は、乙姫のお部屋にも、はひつた。乙姫は何の嫌悪も示さなかつた。ただ、幽かに笑つてゐる。
さうして、浦島は、やがて飽きた。許される事に飽きたのかも知れない。陸上の貧しい生活が恋しくなつた。お互ひ他人の批評を気にして、泣いたり怒つたり、ケチにこそこそ暮してゐる陸上の人たちが、たまらなく可憐で、さうして、何だか美しいもののやうにさへ思はれて来た。
浦島は乙姫に向つて、さやうなら、と言つた。この突然の暇乞ひもまた、無言の微笑でもつて許された。つまり、何でも許された。始めから終りまで、許された。乙姫は、竜宮の階段まで見送りに出て、黙つて小さい貝殻を差し出す。まばゆい五彩の光を放つてゐるきつちり合つた二枚貝である。これが所謂、竜宮のお土産の玉手箱であつた。
行きはよいよい帰りはこはい。また亀の背に乗つて、浦島はぼんやり竜宮から離れた。へんな憂愁が浦島の胸中に湧いて出る。ああ、お礼を言ふのを忘れた。あんないいところは、他に無いのだ。ああ、いつまでも、あそこにゐたはうがよかつた。しかし、私は陸上の人間だ。どんなに安楽な暮しをしてゐても、自分の家が、自分の里が、自分の頭の片隅にこびりついて離れぬ。美酒に酔つて眠つても、夢は、故郷の夢なんだからなあ。げつそりするよ。私には、あんないいところで遊ぶ資格は無かつた。
「わあ、どうも、いかん。淋しいわい。」と浦島はやけくそに似た大きい声で叫んだ。「なんのわけだかわからないが、どうも、いかん。おい、亀。何とか、また景気のいい悪口でも言つてくれ。お前は、さつきから、何も一ことも、ものを言はんぢやないか。」
亀は先刻から、ただ黙々と鰭を動かしてゐるばかり。
「怒つてゐるのかね。私が竜宮から食ひ逃げ同様で帰るのを、お前は、怒つてゐるのかね。」
「ひがんぢやいけねえ。陸上の人はこれだからいやさ。帰りたくなつたら帰るさ。どうでも、あなたの気の向いたやうに、とはじめから何度も言つてるぢやないか。」
「でも、何だかお前、元気が無いぢやないか。」
「さう言ふあなたこそ、妙にしよんぼりしてゐるぜ。私や、どうも、お迎へはいいけれど、このお見送りつてやつは苦手だ。」
「行きはよいよい、かね。」
「洒落どころぢやありません。どうも、このお見送りつてやつは、気のはづまねえものだ。溜息ばかり出て、何を言つてもしらじらしく、いつそもう、この辺でお別れしてしまひたいやうなものだ。」
「やつぱり、お前も淋しいのかね。」浦島は、ほろりとして、「こんどはずいぶん、お前のお世話にもなつたね。お礼を言ひます。」
亀は返事をせず、なんだそんなこと、と言はぬばかりにちよつと甲羅をゆすつて、さうしてただ、せつせと泳ぐ。
「あのお方は、やつぱりあそこで、たつたひとりで遊んでゐるのだらうね。」浦島は、いかにもやるせないやうな溜息をついて、「私にこんな綺麗な貝をくれたが、これはまさか、食べるものぢやないだらうな。」
亀はくすくす笑ひ出し、
「ちよつと竜宮にゐるうちに、あなたも、ばかに食ひ意地が張つて来ましたね。それだけは、食べるものでは無いやうです。私にもよくわかりませんが、その貝の中に何かはひつてゐるのぢやないんですか?」と亀は、ここに於いて、かのエデンの園の蛇の如く、何やら人の好奇心をそそるやうな妙な事を、ふいと言つた。やはりこれも、爬虫類共通の宿命なのであらうか。いやいや、さうきめてしまふのは、この善良の亀に対して気の毒だ。亀自身も以前、浦島に向つて、「しかし、私は、エデンの園の蛇ではない、はばかりながら日本の亀だ。」と豪語してゐる。信じてやらなけりや可哀想だ。それにまた、この亀のこれまでの浦島に対する態度から判断しても、決してかのエデンの園の蛇の如く、佞奸邪智にして、恐ろしい破滅の誘惑を囁くやうな性質のものでは無いやうに思はれる。それどころか、所謂さつきの鯉の吹流しの、愛すべき多弁家に過ぎないのではないかと思はれる。つまり、何の悪気も無かつたのだ。私は、そのやうに解したい。亀は、さらにまた言葉をつづけて、「でも、その貝は、あけて見ないはうがいいかも知れません。きつとその中には竜宮の精気みたいなものがこもつてゐるのでせうから。それを陸上であけたら、奇怪な蜃気楼が立ち昇り、あなたを発狂させたり何かするかも知れないし、或いはまた、海の潮が噴出して大洪水を起す事なども無いとは限らないし、とにかく海底の酸素を陸上に放散させては、どうせ、ろくな事が起らないやうな気がしますよ。」と真面目に言ふ。
浦島は亀の深切を信じた。
「さうかも知れないね。あんな高貴な竜宮の雰囲気が、もしこの貝の中にひめられてあるとしたら、陸上の俗悪な空気にふれた時には、戸惑ひして、大爆発でも起すかも知れない。まあ、これはかうして、いつまでも大事に、家の宝として保存して置くことにしよう。」
既に海上に浮ぶ。太陽の光がまぶしい。ふるさとの浜が見える。浦島はいまは一刻も早く、わが家に駈け込み、父母弟妹、また大勢の使用人たちを集めて、つぶさに竜宮の模様を物語り、冒険とは信じる力だ、この世の風流なんてものはケチくさい猿真似だ、正統といふのは、あれは通俗の別称さ、わかるかね、真の上品《じやうぼん》といふのは聖諦の境地さ、ただのあきらめぢや無いぜ、わかるかね、批評なんてうるさいものは無いんだ、無限に許されてゐるんだ、さうしてただ微笑があるだけだ、わかるかね、客を忘れてゐるのだ、わかるまい、などとそれこそ、たつたいま聞いて来たふうの新知識を、めちや苦茶に振りまはして、さうしてあの現実主義の弟のやつが、もし少しでも疑ふやうな顔つきを見せた時には、すなはちこの竜宮の美しいお土産をあいつの鼻先につきつけて、ぎやふんと
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