事だ。昔から日本の偉い人たちは、たいていそれをやつてゐる。いかなる事情があらうと、詭計を用ゐて、しかもなぶり殺しにするなどといふ仇討物語は、日本に未だ無いやうだ。それをこのカチカチ山ばかりは、どうも、その仇討の仕方が芳しくない。どだい、男らしくないぢやないか、と子供でも、また大人でも、いやしくも正義にあこがれてゐる人間ならば、誰でもこれに就いてはいささか不快の情を覚えるのではあるまいか。
安心し給へ。私もそれに就いて、考へた。さうして、兎のやり方が男らしくないのは、それは当然だといふ事がわかつた。この兎は男ぢやないんだ。それは、たしかだ。この兎は十六歳の処女だ。いまだ何も、色気は無いが、しかし、美人だ。さうして、人間のうちで最も残酷なのは、えてして、このたちの女性である。ギリシヤ神話には美しい女神がたくさん出て来るが、その中でも、ヴイナスを除いては、アルテミスといふ処女神が最も魅力ある女神とせられてゐるやうだ。ご承知のやうに、アルテミスは月の女神で、額には青白い三日月が輝き、さうして敏捷できかぬ気で、一口で言へばアポロンをそのまま女にしたやうな神である。さうして下界のおそろしい猛獣は全部この女神の家来である。けれども、その姿態は決して荒くれて岩乗な大女ではない。むしろ小柄で、ほつそりとして、手足も華奢で可愛く、ぞつとするほどあやしく美しい顔をしてゐるが、しかし、ヴイナスのやうな「女らしさ」が無く、乳房も小さい。気にいらぬ者には平気で残酷な事をする。自分の水浴してゐるところを覗き見した男に、颯つと水をぶつかけて鹿にしてしまつた事さへある。水浴の姿をちらと見ただけでも、そんなに怒るのである。手なんか握られたら、どんなにひどい仕返しをするかわからない。こんな女に惚れたら、男は惨憺たる大恥辱を受けるにきまつてゐる。けれども、男は、それも愚鈍の男ほど、こんな危険な女性に惚れ込み易いものである。さうして、その結果は、たいていきまつてゐるのである。
疑ふものは、この気の毒な狸を見るがよい。狸は、そのやうなアルテミス型の兎の少女に、かねてひそかに思慕の情を寄せてゐたのだ。兎が、このアルテミス型の少女だつたと規定すると、あの狸が婆汁か引掻き傷かいづれの罪を犯した場合でも、その懲罰が、へんに意地くね悪く、さうして「男らしく」ないのが当然だと、溜息と共に首肯せられなければならぬわけである。しかも、この狸たるや、アルテミス型の少女に惚れる男のごたぶんにもれず、狸仲間でも風采あがらず、ただ団々として、愚鈍大食の野暮天であつたといふに於いては、その悲惨のなり行きは推するに余りがある。
狸は爺さんに捕へられ、もう少しのところで狸汁にされるところであつたが、あの兎の少女にひとめまた逢ひたくて、大いにあがいて、やつと逃れて山へ帰り、ぶつぶつ何か言ひながら、うろうろ兎を捜し歩き、やつと見つけて、
「よろこんでくれ! おれは命拾ひをしたぞ。爺さんの留守をねらつて、あの婆さんを、えい、とばかりにやつつけて逃げて来た。おれは運の強い男さ。」と得意満面、このたびの大厄難突破の次第を、唾を飛ばし散らしながら物語る。
兎はぴよんと飛びしりぞいて唾を避け、ふん、といつたやうな顔つきで話を聞き、
「何も私が、よろこぶわけは無いぢやないの。きたないわよ、そんなに唾を飛ばして。それに、あの爺さん婆さんは、私のお友達よ。知らなかつたの?」
「さうか、」と狸は愕然として、「知らなかつた。かんべんしてくれ。さうと知つてゐたら、おれは、狸汁にでも何にでも、なつてやつたのに。」と、しよんぼりする。
「いまさら、そんな事を言つたつて、もうおそいわ。あのお家の庭先に私が時々あそびに行つて、さうして、おいしいやはらかな豆なんかごちそうになつたのを、あなただつて知つてたぢやないの。それだのに、知らなかつたなんて嘘ついて、ひどいわ。あなたは、私の敵よ。」とむごい宣告をする。兎にはもうこの時すでに、狸に対して或る種の復讐を加へてやらうといふ心が動いてゐる。処女の怒りは辛辣である。殊にも醜悪な魯鈍なものに対しては容赦が無い。
「ゆるしてくれよ。おれは、ほんとに、知らなかつたのだ。嘘なんかつかない。信じてくれよ。」と、いやにねばつこい口調で歎願して、頸を長くのばしてうなだれて見せて、傍に木の実が一つ落ちてゐるのを見つけ、ひよいと拾つて食べて、もつと無いかとあたりをきよろきよろ見廻しながら、「本当にもう、お前にそんなに怒られると、おれはもう、死にたくなるんだ。」
「何を言つてるの。食べる事ばかり考へてるくせに。」兎は軽蔑し果てたといふやうに、つんとわきを向いてしまつて、「助平の上に、また、食ひ意地がきたないつたらありやしない。」
「見のがしてくれよ。おれは、腹がへつてゐるんだ。」となほもその辺を、うろうろ捜し廻りながら、「まつたく、いまのおれのこの心苦しさが、お前にわかつてもらへたらなあ。」
「傍へ寄つて来ちや駄目だつて言つたら。くさいぢやないの。もつとあつちへ離れてよ。あなたは、とかげを食べたんだつてね。私は聞いたわよ。それから、ああ可笑しい、ウンコも食べたんだつてね。」
「まさか。」と狸は力弱く苦笑した。それでも、なぜだか、強く否定する事の能はざる様子で、さらにまた力弱く、「まさかねえ。」と口を曲げて言ふだけであつた。
「上品ぶつたつて駄目よ。あなたのそのにほひは、ただの臭《くさ》みぢやないんだから。」と兎は平然と手きびしい引導を渡して、それから、ふいと別の何か素晴らしい事でも思ひついたらしく急に眼を輝かせ、笑ひを噛み殺してゐるやうな顔つきで狸のはうに向き直り、「それぢやあね、こんど一ぺんだけ、ゆるしてあげる。あれ、寄つて来ちや駄目だつて言ふのに。油断もすきもなりやしない。よだれを拭いたらどう? 下顎がべろべろしてるぢやないの。落ついて、よくお聞き。こんど一ぺんだけは特別にゆるしてあげるけれど、でも、条件があるのよ。あの爺さんは、いまごろはきつとひどく落胆して、山に柴刈りに行く気力も何も無くなつてゐるでせうから、私たちはその代りに柴刈りに行つてあげませうよ。」
「一緒に? お前も一緒に行くのか?」狸の小さい濁つた眼は歓喜に燃えた。
「おいや?」
「いやなものか。けふこれから、すぐに行かうよ。」よろこびの余り、声がしやがれた。
「あしたにしませう、ね、あしたの朝早く。けふはあなたもお疲れでせうし、それに、おなかも空《す》いてゐるでせうから。」といやに優しい。
「ありがたい! おれは、あしたお弁当をたくさん作つて持つて行つて、一心不乱に働いて十貫目の柴を刈つて、さうして爺さんの家へとどけてあげる。さうしたら、お前は、おれをきつと許してくれるだらうな。仲よくしてくれるだらうな。」
「くどいわね。その時のあなたの成績次第でね。もしかしたら、仲よくしてあげるかも知れないわ。」
「えへへ、」と狸は急にいやらしく笑ひ、「その口が憎いや。苦労させるぜ、こんちきしやう。おれは、もう、」と言ひかけて、這ひ寄つて来た大きい蜘蛛を素早くぺろりと食べ、「おれは、もう、どんなに嬉しいか、いつそ、男泣きに泣いてみたいくらゐだ。」と鼻をすすり、嘘泣きをした。
夏の朝は、すがすがしい。河口湖の湖面は朝霧に覆はれ、白く眼下に烟つてゐる。山頂では狸と兎が朝露を全身に浴びながら、せつせと柴を刈つてゐる。
狸の働き振りを見るに、一心不乱どころか、ほとんど半狂乱に近いあさましい有様である。ううむ、ううむ、と大袈裟に唸りながら、めちや苦茶に鎌を振りまはして、時々、あいたたたた、などと聞えよがしの悲鳴を挙げ、ただもう自分がこのやうに苦心惨憺してゐるといふところを兎に見てもらひたげの様子で、縦横無尽に荒れ狂ふ。ひとしきり、そのやうに凄じくあばれて、さすがにもうだめだ、といふやうな疲れ切つた顔つきをして鎌を投げ捨て、
「これ、見ろ。手にこんなに豆が出来た。ああ、手がひりひりする。のどが乾く。おなかも空《す》いた。とにかく、大労働だつたからなあ。ちよつと休息といふ事にしようぢやないか。お弁当でも開きませうかね。うふふふ。」とてれ隠しみたいに妙に笑つて、大きいお弁当箱を開く。ぐいとその石油鑵ぐらゐの大きさのお弁当箱に鼻先を突込んで、むしやむしや、がつがつ、ぺつぺつ、といふ騒々しい音を立てながら、それこそ一心不乱に食べてゐる。兎はあつけにとられたやうな顔をして、柴刈りの手を休め、ちよつとそのお弁当箱の中を覗いて、あ! と小さい叫びを挙げ、両手で顔を覆つた。何だか知れぬが、そのお弁当箱には、すごいものがはひつてゐたやうである。けれども、けふの兎は、何か内証の思惑でもあるのか、いつものやうに狸に向つて侮辱の言葉も吐かず、先刻から無言で、ただ技巧的な微笑を口辺に漂はせてせつせと柴を刈つてゐるばかりで、お調子に乗つた狸のいろいろな狂態をも、知らん振りして見のがしてやつてゐるのである。狸の大きいお弁当箱の中を覗いて、ぎよつとしたけれども、やはり何も言はず、肩をきゆつとすくめて、またもや柴刈りに取かかる。狸は兎にけふはひどく寛大に扱はれるので、ただもうほくほくして、たうとうやつこさんも、おれのさかんな柴刈姿には惚れ直したかな? おれの、この、男らしさには、まゐらぬ女もあるまいて、ああ、食つた、眠くなつた、どれ一眠り、などと全く気をゆるしてわがままいつぱいに振舞ひ、ぐうぐう大鼾を掻いて寝てしまつた。眠りながらも、何のたはけた夢を見てゐるのか、惚れ薬つてのは、あれは駄目だぜ、きかねえや、などわけのわからぬ寝言を言ひ、眼をさましたのは、お昼ちかく。
「ずいぶん眠つたのね。」と兎は、やはりやさしく、「もう私も、柴を一束こしらへたから、これから背負つて爺さんの庭先まで持つて行つてあげませうよ。」
「ああ、さうしよう。」と狸は大あくびしながら腕をぽりぽり掻いて、「やけにおなかが空《す》いた。かうおなかが空くと、もうとても、眠つて居られるものぢやない。おれは敏感なんだ。」ともつともらしい顔で言ひ、「どれ、それではおれも刈つた柴を大急ぎで集めて、下山としようか。お弁当も、もう、からになつたし、この仕事を早く片づけて、それからすぐに食べ物を捜さなくちやいけない。」
二人はそれぞれ刈つた柴を背負つて、帰途につく。
「あなた、さきに歩いてよ。この辺には、蛇がゐるんで、私こはくて。」
「蛇? 蛇なんてこはいもんか。見つけ次第おれがとつて、」食べる、と言ひかけて、口ごもり、「おれがとつて、殺してやる。さあ、おれのあとについて来い。」
「やつぱり、男のひとつて、こんな時にはたのもしいものねえ。」
「おだてるなよ。」とやにさがり、「けふはお前、ばかにしをらしいぢやないか。気味がわるいくらゐだぜ。まさか、おれをこれから爺さんのところに連れて行つて、狸汁にするわけぢやあるまいな。あははは。そいつばかりは、ごめんだぜ。」
「あら、そんなにへんに疑ふなら、もういいわよ。私がひとりで行くわよ。」
「いや、そんなわけぢやない。一緒に行くがね、おれは蛇だつて何だつてこの世の中にこはいものなんかありやしないが、どうもあの爺さんだけは苦手だ。狸汁にするなんて言ひやがるから、いやだよ。どだい、下品ぢやないか。少くとも、いい趣味ぢやないと思ふよ。おれは、あの爺さんの庭先の手前の一本榎のところまで、この柴を背負つて行くから、あとはお前が運んでくれよ。おれは、あそこで失敬しようと思ふんだ。どうもあの爺さんの顔を見ると、おれは何とも言へず不愉快になる。おや? 何だい、あれは。へんな音がするね。なんだらう。お前にも、聞えないか? 何だか、カチ、カチ、と音がする。」
「当り前ぢやないの? ここは、カチカチ山だもの。」
「カチカチ山? ここがかい?」
「ええ、知らなかつたの?」
「うん。知らなかつた。この山に、そんな名前があるとは今日まで知らなかつたね。しかし、へんな名前だ。嘘ぢやないか?」
「あら、だつて、山にはみんな名前があるものでせう? あれが富士山だし、あれが長尾山だし、あれが大室山だし、みんな
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